イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

仲直り

 日本古来の宗教とキリスト教の違いは何か。歴史に書かれた事実、それも、キリスト教徒による残酷な行為を知らされている日本人には信じがたい違いかも知れない。

また、隠れキリシタンを生んだ日本の暗い歴史的な事実。そのため、イエス様の説いた教えが、多くの日本人の耳に入ってこないようになっている気がしてならない。

 その違い、つまり、キリスト教の美しさは「仲直り(なかなおり)をしましょう」というメッセージにある。

これは、第一には「神様と人との仲直り」、第二は「人と人との仲直り」である。

裁判で使われる和解よりもはるかに広い意味を持つ和解が、この仲直りである。

裁判での和解(わかい)は、金による妥協(だきょう)のように思える。実務上、狭く限定した範囲で行われないといけない、つまり、人間の行う裁判なのだから、仕方のないことなのだろうけど・・・真実は覆い隠されたままに・・・人の寿命には限りがあるから・・・妥協して、残りの人生を前向きに生きていく。そうは言っても、人間の肉体が生きていくために必要なパンを得るだけのような金銭による和解。

 何か欠けている。愛が欠けている。本当の愛が欠けている。本当の愛とは何か。

それが、仲直り。過去の事実は消せない。しかし、過去の過ちや負債、つまり、罪は消せる。水に流せる。水に流して暖かい信頼関係をつくって行く始まりが仲直り。

男と女の関係は「仲直り」という愛がなければ、いつかどこかで、別れが待っている。

親兄弟もそうだ。ケンカは起こるものだ。仲直りがなければ、死ぬまで別れたままになりやすい。

神様と人間の関係は永遠だ。神様の方はいつも「仲直り」をしたいと人間のそばで人間を待っておられる。ただ、神様はそばにおられても見えない。信じれば見えてくる。

ここいら辺が、日本古来の宗教とキリスト教の違いだ。

 猿(さる)も人間も神様が造られた。猿は身にまとうものが要らない。毛皮が生まれながらにしてある。金も要らない。頼るのは神様が造られた自然環境だ。自然環境に不足があれば、人間の作った世界に現れるが、基本、それなりに完成されている生物だ。

 人間は猿に似ているが非なる存在だ。そう、人間は裸で生きていけない。最初に人間が作ったのはイチジクの葉をつづった腰みのだ。恥ずかしい、と思ったからだ。エデンの園(楽園:エデンとは楽しみというような意味)での出来事だ。善悪を知るとは、恥ずかしいという意識を持つことでもある。この意識がなくなれば、人間と猿との境界はなくなって来るかも知れない。

 では、善悪とは何か。神様の教えや戒め、つまり、諭し(さとし)に従うことを善と呼び、従わないことを悪と呼ぶのだ。そうすると、正直に自分自身を見つめると、善も悪も行う自分が見えてくる。偽善が最もたちの悪い悪だけど・・・とにもかくにも人間は悪いことをする。そのとき、人間はエデンの園から追放という罰を受ける。天罰だ。

悪といっても小さければ小さいほど引き返しやすい。どこにか、エデンの園だ。大きくても引き返せる。引き返したい、と思えば、それは、仲直りの始まりだ。そのとき、必要なのは神様を信じる気持ちだ。これをキリスト教ではイエスをキリストと信じる信仰と言っている。キリストとはメシア(救世主)という意味。

そして、引き返せば、引き返しただけで仲直りは成立する。神様は引き返した人間にかけより抱いてくれる。

 ヨハネ・ヤジロー

 

χαρισμα(カリスマ)

 カリスマ(χαρισμα`)はギリシャ語に由来します。もともとは、贈り物の意味です。その最上のものは天からの贈り物、つまり、神様からの贈り物です。賜物(たまもの)と短く言うことがあります。また、日本人がよく使う使い方のカリスマの意味もあります。文脈で判断するしかありません。神様からの授かりものだけは個人の努力で得られるものでありません。スポーツや歌、芸術などから見てもわかるように明らかに神様からの授かりものがなければ、結果が人の心を打たない・・・そのカリスマは誰もが知ることですが。

 カリスマの中で誰もがもらえる最高のものは「永遠の生命」。神様からいただく最高の贈り物です。新約聖書は、そのカリスマを中心に語られます。その対極の位置にあるのが労働などによる報酬です。食べなければ肉体は生きていけません。やがては死んでいく肉体のためにもらうお金などと対極的な位置にあるのがカリスマです。

カリスマはカリス(恵み)から来ている言葉です。アメージング・グレースのグレース(グレイス)です。だから、個人の力では得ることのできない天からの贈り物、それが、カリスマです。

 また、勲章などもカリスマです。そのようにカリスマの意味は広いけど限定されています。

 また、犯した過ちや罪が赦(ゆる)されること、恩赦もカリスマです。

 特に神様から赦されることが恩赦の中で最高の賜物です。身近な人や他人が赦していなくてもかまわない。神様が赦された人を赦さない人がいれば、その赦さない人は神様から罪人とされるほどの力のあるカリスマです。イエス様からのカリスマは犯した罪や過ちが赦されることです。イエス様がキリスト(救い主)と頼られる所以です。

 それ以外で、誰もが持っているカリスマがあります。探せば、誰でも、どこか良いところがあるものです。それもカリスマです。そのよい所(カリスマ)を認め合って互いに助け合って行きましょう、と聖パウロは第1コリントなどで述べています。

 最近、会話がまともにできないダウン症の男の子のカリスマを見ました。知らない若者(男性)が女友達と教会に来ました。当然ですが、教会の人々に対して距離感を持っています。しかし、そのダウン症の男の子は、その若者にニコニコしながら近寄り肩に手をまわしたのです。誰もがマネのできない歓迎の仕方でした。周りの緊張感が解けてフレンドリーな雰囲気を作る行動でした。これもカリスマです。教会では宣教師などに求められる行動が、そのダウン症の男の子は簡単に誰よりも先にできたのです。会話などまともにできないのに。愛とは何かと教えられる行動でした。

 教会も組織です。誰もが何かしらのカリスマを持っています。そのカリスマを互いに出し合っていくとみんなが明るく生き生きとしてきます。暖かい血の通った組織になります。逆に、あの子はダウン症だから人前に出すな、というような組織であれば、人が一人二人といつの間にか去って行く組織と成って行くでしょう。

 必要とされていない人はいない、と聖パウロはカリスマから説きます。

                    ヨハネ・ヤジロー

       

炎の人パウロ

 聖パウロは炎の人だった、と新約聖書を読むたびに思う。その情熱は炎のように熱いのですが、どうも、日本人は感情をあらわにした表現を避けます。恋人と歩くときに、「君を愛してる、君の瞳はきれいだ」とは言えずに「街の明かりがきれいだ」とか告白します。それで、原書からの日本語訳が・・・今ひとつとなりやすい。でも、パウロは純粋なだけです。天才特有の純粋さです。天才ですから一言で多くのことを表現しようとします。それも、彼なりの厳密な理論といいますか、彼にとっては共通の原則、理論ではあるのですが、それでもあり、このくらいは知っているはずだと彼は天才特有の省略した表現をします。そこを理解するとパウロの手紙は読みやすくなります。

 たとえば、パウロは自分はイエス様の奴隷と手紙で書きます。でも、これは「恋の奴隷」的な感情なのです。あなただけ、あなただけという情熱でイエス様を慕っている。これがイエス様をキリストと信じるパウロの信仰です。熱いのです。この熱さを感じる人にペテロもいます。漁師であったペテロが漁をしていたときイエス様に気づいて湖に飛び込みます。ペテロがそのとき裸で漁をしていたからです。ですから、ペテロにとってイエス様が十字架にかかるということは絶対にあってはならないことだった。心の底からイエス様が好きだったのです。ずっとイエス様と一緒にいたかった。死ぬほどイエス様が好きだった。これは彼らの殉教の感情でもあります。心中にほぼ近い。

 パウロもそうですが、この感覚は一神教の感覚でもあります。浮気はいけないのです。多神教は浮気を認めています。よくある日本人の一生は多神教そのものです。生まれてから七五三で神社参り、結婚式はキリストの教会、葬式は仏教。クリスマスも大好きです。サンタクロースはキリスト教の聖人に由来します。

 多神教では不倫は宗教的な文化かもしれませんが、一神教ではだめです。一神教の神様は熱情の神様だからです。浮気はご法度です。それで、十戒の一番最初に来る戒めがこうあるのです。モーセに神様はこう告げられました。「私はあなたの神、主、私があなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した。あなたに私以外の神々があってはならない。」その後、モーセにこうも言われました。「あなたは他の神を拝んではいけない。私は熱く妬み深い。その名は熱情、妬みの神。」と。

熱情と妬みはヘブライ語の原語では一つで「カナ」です。日本の古語「愛し(かな・し)」を連想する言葉です。これは今の「悲し」につながる言葉ですが、自分では抑えきれない痛切な感情表現です。古(いにしえ)を思えば、神様の名は愛とも訳せます。

それで、神様の愛は炎のようです。それで、神様の本質「聖霊」は炎で表現されることもあります。それで、パウロも炎となって神様と親しまれたのです。殉教には心中的な感情があります。イエス様の愛は熱い。その故に十字架にかかられた。それにパウロも炎となって応答した。アーメン!  ヨハネ・ヤジロー

 

神様の正義とは義なり

 「神様の正義とは義なり」。つまり、「日本語訳聖書では「義」と「神様の正義」を翻訳しているのです。義を正義と訳してもいいのでしょうが、人間が思う正義と神様の正義とは全く同じではないのです。勧善懲悪であっても恩赦もまた神様の正義なのです。神様は聖書にある通りに「恵みたい者に恵まれ、赦したい者を赦される」のですから、つまり、人の感情や気持ちそして頭脳をはるかに超えた次元・・・神様は全知全能で万物の造り主なのですから、その権威はとうてい人間の及ぶところではないのです。そこのところを押さえておかないと議論や疑問が泉の水のごとくわいてきます。死刑制度についての議論や疑問が代表されます。人間の目から見れば、この世の中は例外的なことが事実として存在しています。ついこの間のことです。教会に集まって聖書を読み、学ぶときにも「義」の具体的な中身の話に及ぶとき、人間が思う正義との混同がありました。すると、聖書を読んでもわからないことばかりです。つまり、人間のレベルで聖書に書いてある義を考えたからです。人間を神様のように扱ってはいけません。そんなことをすれば、「殺すな、盗むな、犯すな」というような当たり前の法が破られて行きます。近年では世界大戦で経験済みですが、規模が小さな小さなところではオウム真理教の人々が人間を神様のように扱ったから「殺すな、盗むな、犯すな」という正義が破られました。

 確かに、一番大事な神様の正義とは、神様を一番目に愛することです。だからこそ、人間を神様のように扱ってはいけないのです。神様の命令が一番優先されます。

しかし聖書の神様は人間の目に見えない。そこで、聖書を学ぶ人々は、祈ります。祈りとは神様との会話でもあります。すると、神様のお考えがわかって、そのように行います。これが、神様を一番目に愛することです。でも、自分の中にこだわりなどがあって、謙虚な心などがないとないときは、神様は沈黙されます。また、神様はご自分のお考えを祈っているものがわからないときにも沈黙されます。祈っても答えは返って来ません。神様の沈黙があります。このとき、勘違いはいけません。神様はいないのではなく、神様はおられるのです。ここが、神様が恵みたい者に恵まれるゆえんなのです。人間が自分自身を神様のような立場に立って判断すると「神様はいない。信じられるのは自分だ。いや、金だ」とかいう気持ちになってきます。

 そこで、クリスチャンは、イエス様を思い出すために、イエス様の十字架での犠牲の死と復活を深く思い、その象徴であるパンとワインを定期的にいただきます。

そのとき、神様の正義に不従順であったこと(罪を犯したこと)を思い起こし赦していただく。そう、自分の罪や穢れから清めていただくために自分自身の心が張り裂けたかのように・・・つまり、まことの謙虚さをもってパンとワインをいただく。そのような信仰を持つとき、人は神様から義とされます。

古代と現代のキリスト教会との違い

 古代の新約聖書時代のキリスト教会と現代のキリスト教会との違いについて思った。

そう思ってみても、現代は数えきれないくらいの教会があり、宗派も多様だ。表面的な違いは個人的に知っている範囲をはるかに超えて多いだろう。個人的によく知っている教会も日本にある北部九州のいくつかの教会しかない。教会に行くようになって50年未満だ。そのような狭い経験でもこれだけは言えるだろう。

 古代も現代も本質的というか、真実や真理という面では変わりはない。つまり、このことは昔も今もこれからもキリストの教会は存在をしていくということだ。

何で、そんなことが言えるのか。簡単である。新約聖書を読めばわかる。特に、使徒パウロの書簡だ。教会の様々な課題や深刻な問題について書かれてある。現代と本質的に同じなのだ。つまり、教会に来ている人々は、古代も今も変わらない人々の集まりなのだ。理由は、人間の本質が変わらないからだ。その真実からくる行動様式も変わらない。真理というものは変わらないのだ。

その証拠を具体的に示すのは恐い。そう、もっと具体的に書くのは恐い。身近でわかりやすい真実を具体的に書けば書くほど名誉棄損で裁判に訴えられる可能性が高くなるからだ。

それで、せいぜい書けても「おとぎ話」のようなたとえ話だ。すると、新約聖書福音書を読めば良いことになる。そこは聖書の中で、そのことでも最も光り輝いているからだ。

身近で具体的なことは福音書から悟るに限る。誰も迷惑しない。高いお金で探偵を雇う必要もない。

もっと具体的なことは新約聖書の書簡集にある通りで、あとは真理や真実を悟って具体的に応用するだけだ。それもこれも古代も現代も人間の本質が変わらないからだ。

これくらいは、書ける。教会の中でもあらゆる差別が存在し、貧しい人や弱い人の数は多く、性的な乱れも存在することだ。意見の違いからくる争いもある。つまり、教会内も教会外も起きている出来事の内容はそんなに変わらないのだ。ただ、教会内の方が、悲劇の数は少ないと経験的に思う。それで、教会内の方が住み心地が比較的良い、と証言できる。

それは、教会の内部で、イエス様の犠牲による仲直りがあるからだ。その犠牲の象徴は十字架なのだが、古代の血を流す生贄(いけにえ)の儀式を具体的に知らない現代人にはピンと来にくいかもしれない。今はミサ(聖餐式もしくは晩餐式と呼ぶ宗派もある)だ。

生贄の儀式からにミサ(聖餐式、晩餐式)に変更されたことは、神様と人との契約の形式が極めて簡素に変更されたことを意味する。これで、キリストの教会は古代から生き続けている。人は罪を犯すものだ。その自覚があって、聖なるパンとワインをいただく。そこで罪のゆるしが生じる。そこにイエス様のキリストとしての働き、愛がある。

 その愛と何かと使徒パウロは第一コリント13章で語る。その愛を行う人たちがいるからこそ教会の中は住み心地が良くなる。その愛の典型の筆頭に来るのが辛抱、親切。

それだけではない。熱き情熱は持っていても妬んで相手を傷つけない配慮も愛、そう、相手を自慢などしてはずかしめないこと。あらさがしをしないこと。私利私欲に走らないこと。愛からくる折れない心は倒されても立ち上がれる。相手から見れば倒れない。

それは不正を喜ばないで真理を喜ぶから。

そのような愛がある人々により、キリストの教会は、この世の中のどこにでもいる人々の集まりでありながらも、古代から現代まで続いている。数多くの過ちや罪を犯したにもかかわらず。

 

 

 

日本は多神教か

 日本は多神教の国という日本人が言うときは、一神教であるキリスト教を意識して言うことが多い。一神教とはアブラハムが信じた神様を信じている宗教を指して、成立の順番から言えば、ユダヤ教キリスト教イスラム教だ。つまり、同じ神様を信じている一神教は世界の過半数を超えている。

それもそのはずと思う。アブラハムが信じた神様は万物の創造主。つまり、存在するものの中で一番偉い。最高神だ。では、他に神様はいないのか、といえば、ユダヤ民族(ユダヤ教徒)の前身であるイスラエル民族(12部族)は他の神様も信じていたと聖書は語っている。つまり、イスラエルの民族の父でもあるアブラハム一神教から多神教そして一神教というようにイスラエル民族はさまよっている有様が聖書に描かれている。もちろん、その中にはずっと一神教だった人々もいるだろうが、今の日本人と大差のない信仰の状態であったとも聖書から読み取れる。

そこが、聖書が全世界で読み続けられている理由だ。誰にでも聖書は語りかけている。

無神論者にもか。そう、無神論者にも。無神論というのは多神教の一つだ。つまり、無神論は「自分が神様」という多神教だ。自分が神様なら、神様の数は、そこらへんに転がっているというか数えきれないくらい神様がいる。専門的な分野で何々の神様と呼ばれる神様は多い。女神もいる。そうしたら、これは多神教ともいえる。しかし、無神論者にとっては、自分以外の人が神様であっては困るので、自分以外の神の存在は無いとしなくてはいけない。これが、無神論の真実かなぁ。

それより、最高神だけを信じている方が楽だ。祈るとき、願いがかなえられる確率が最も高いではないか。自分を信じるのは狭い範囲では確実かもしれない。しかし、世の中は無限とも思えるほど広い。そして、天災や戦争、また、身近なことでは不運があるかと思えば幸運にも出会う。

この先を読めない事実に何度も出会うと一番読めない神様を信じるに限る。

最高神のことは誰も完全に理解できない。偉大過ぎるから。しかし、信じるには最高の神様だ。祈った結果について、自分の予想や願いから外れていても、納得できるからだ。神様と自分の考えが一致しなくても、相手の方がはるかに偉大であれば納得ができる。自分を神様にすれば、自分が信じられなくなってくるのが人生だ。自分の願い通りに人生が展開しないことが多すぎるからだ。

そして、不確定な時代に日本は入っている。少子高齢化の時代は、ぼけても不自由な体になっても生きていける時代だ。長く生きれば生きるほど、できることは少なくなっていく。それなのに生きていくのか。介護をするのか。いくら介護をしても介護が楽になることはない底なし沼の時代に日本人は生きているのだろうか。そうかといって、昔の姥捨て山の時代も怖い。それで、老人になってからイエス様をキリストと信じる人を周囲に見る機会が増えた。人の一生も多神教から一神教に最終的に紆余曲折はありながらもなっていくのだろうか。

 ただ、デーモン(デモン:古典式発音の音訳ではダイモン)を信じるのは避けるべきだ。激しい怒りという感情に身を任せて殺人をすることになりやすいから。デーモンは多神教の神々の中にもいるが(有名な武将上杉謙信毘沙門天など時代の要求に応じた神、聖書ではヘロデ大王など)人の心の中に容易に入ってくる悪霊もいる。聖書の中にあるデーモンという原語の言葉を訳するときには悪霊と訳していると大体正解なのかも知れないが、異教の神と訳した方が適切な場合もある。オウム真理教の人々の死刑執行の出来事からも思った。

世界の中でも最も信じられている最高の神様を信じたほうが謙虚になれて怒って人を殺そうという気にはなりにくいものと思う。しかし、この言葉も確率が高いだけで、現実には例外的な事実が存在している。カインとアベルの事件にあるように。聖書にある最初の殺人事件だ。最高の神様を信じていても、怒りという感情をセルフコントロール(自己制御)するのは本当に大変なことだが、できないと事件になる。

それでも、アブラハムが信じた神様を信じたほうが幸せ。信じただけで幸せな気持ちになれるから。その気持ちで少しでも天国に行けたことになれるなら、天国は誰のそばにもすぐ近くにある。

いや、もっと、天国は広く高く深いすごいことなのだろうけど、単純に信じるだけでも心の中は幸せになれる。一神教は単純なので楽。そして、信じる範囲は無限なので誰でもどこかに幸せを見つけられる。

 

天罰

  天罰とは神様から下される罰で軽いものから重いものまであり多種多様。

「こんなことをしたので、していたので罰が当たった」と日常的に思うことは多い。

天とは神様を遠回しに述べる表現なので、幅広く使われる言葉。しかし、天罰という言葉はイエス・キリストのイメージとかけ離れているという人がいて、驚いた。

天罰が下るからイエス様をキリストと信じる。罪を犯せば罰が下る。その罪を犯さない人は、イエス様をキリストと信じる必要がない。天罰が恐いから信じるのだ。

たとえば、人殺しや盗みを働いて、信じているから救われる、と人前で言うのは天を恐れぬ言葉で、その裁きは天から下る。信仰とは天からの裁きを恐れることが基本。無知による罪は誰でも犯す。それでも、罪は罪だから天罰は下る。神様の本質は真理であり真実の存在なのだから、無知がなした罪でも罰が下る。パンがなければ、クッキーでも食べれば、というような無知な言葉でギロチンにかけられた人もいる。

そう、イエス様をキリストと信じれば天罰から救われるといっても、信じたかどうかの判断は人間の側にあるのではなく天の側にある。あくまでも、救われるという結果は神様からもたらされる。そのような謙虚さがない信仰で救われることはない。

「人は、皆、罪を犯す」という不変の真実がある。その真実を人は勝手に解釈して、自分を自分で赦す真実や真理としてはいけない。天罰を恐れて、犯した罪の赦しを神様に願うべき。それは、救いは神様の方からもたらされるからだ。

 神様がモーセにご自分のことを語られた言葉(出エジプト記34章5~7節)がある。

「私は憐れみ深い、恵み深い、怒るに遅い、慈しみ深い、真の神、恵みを幾千世代にも保ち、あらゆる罪を赦す神、また、父祖たちの罪を清めて清めることなく、子、孫と三代、四代とわたらせて罰する神。」

それを聞いてモーセはあわてて地に頭を付けるように神様に平伏して言う。

「私がお目にかなう者でしたら、主よ、どうか、主よ、お行き下さい、我らの中を。民は高慢で強情で罪深い者たちでありますが、お許しください。我らを主のものとしてください。」

 イスラエルの民は選民と言われるけど、現代の我々と同じようなあらゆる罪を犯していた。それをモーセが必死に謙虚に神様に恩赦を求めたので救われたどころか、祝福も受けた。

甘えや高慢のある心からもたらされるような信仰ではなく、モーセのような謙虚な信仰がないと救われません。

自分たちのような高慢で強情な者でも何とかお救いくださいという謙虚な信仰がモーセにあったのでイスラエルの民は神様から特別に目をかけられた。選民となった。

 ヨハネヤジロー