イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

人の愛と神様の愛

  人の愛は人生経験を積んでいけば、それなりに知っていけます。でも、神様の愛は全てを知ることは無理です。人間のレベルでの比較でも存在期間が全く違います。人間は百歳も生きれば長寿です。でも、聖書で述べている神様は、人よりも前から存在しているから存在期間が人間から見れば永遠です。それで、人間である私が神様の愛を全て知ることは不可能。つまり、ほんの一部しか知っていない。その事実を前提にしないと何も書けない。神様の愛について。

 そのようなときでも、神様の愛と人の愛の共通部分は、少しは書けます。

共通部分は、神様の愛は、人間から見れば親の愛ではありますが、理想的な親の愛です。私も子供がいますが、子供たちは成人の年齢なのに、神様のように子供を愛してきたとは言えない。試行錯誤の愛です。間違った愛し方をしたことも多かった。その間違いに気づいては修正するという愛です。神様の愛に近づける努力の日々です。

また、神様の愛は人間を妻にたとえると夫の愛です。私には妻がいますが、これもまた試行錯誤の愛です。愛し方を間違えては修正する日々です。30年以上たった今もそうです。亡くなった私の親も私を愛してくれました。でも、人間の愛ですから、いつも正しく愛したわけではない。でも、私は父母の愛に満足しています。人間の愛には限界があるし、間違った愛し方もあることを自分自身の経験から学んで来ましたので、私は私の父母の愛に満足できるようになりました。もっと、積極的に言えます。私と父母との間に残ったものは愛だけです。父母が私を愛してくれたこと、それだけが、父母との間の楽しい思い出です。愛してくれた。それ以外のことは忘れてしまいました。

結局、最後に残るのは愛だけです。

ところが、神様は振り返ってみれば、いつも私を正しく愛してくれました。でも、その正しさに気づくのには、時間がかかることが多かった。最長のもので、現時点では50年ですか。神様が自分の望んでいること直ぐ今してくれなくても、それが正しいことであるということは、幸い、長く生きたので知ることができました。

その点、人間の親は早く結果を欲しがって間違った愛し方をすることがあります。

忍耐して信じる気持ちが必要です。神様に近い愛で愛したければ。短気はいけません。

短気を起こしては間違った愛し方をした経験がたくさんあります。

 また、これは言えると思います。自分の心や体にとことん正直になることです。そうすると修正点が見つけやすい。要するに、正直だと現実に起きている事実を認めることが容易になるのです。ただし、地球が太陽の周りをまわっている事実は、自分の力では認めることはできません。宗教改革者ルターでもそうでした。だから、一人の人間の正直には限界があります。回りから教えられて気が付くことも必要なときがあります。

 現実を認めるには正直さが必要です。最近の日本では、政府の統計に不正確さがあったと問題が起きています。データというものは、大量に取り、それも精度が高ければ高いほど統計処理をしたときに真実を語ってくれるものです。たとえば、そうでないと地動説には説得力がなかった。ケプラーの法則も発見されなかった。

楽して急いで取ったデータは、それほど正直に真実を語ってくれません。それどころか、データを少なく取る操作をすれば、偽りを語ることになりやすい。頭の良い人は偽りを言うために不正な統計操作をすることがあります。それには、時間がかかることがあります。それを人員削減と予算の削減の中でやったというのですから、日本の官僚は優秀です。でも、直ぐに身の周りの人からほめられるという結果を欲しがらなければ、嘘をつく労力は何もいりません。

小細工は信用という大切なものを失います。個人的な出世と私欲で小細工をしたのでしょうか。正直者はバカを見ることはありますが、人間として大切なものは得ます。信用です。いくら頭が良くても早く人から認められたい、早く高く評価されたいと思うと不正な統計操作に手を出しやすくなります。人間には、そのような悲しい所があります。

 どうせ、嘘はいつかばれる。天にはいつもばれている。

人から愛されることより天から愛されることを選ぶべきなのです。これができる人は真の勇者です。見かけはみすぼらしくても。イエス様は小さなロバに乗ってエルサレムに入場されました。立派な馬に乗ってこられなかった。真の勇気、真の愛を見ます。

 

休ませるイエスの愛、ヤジロー

 奴隷のような身分に誰でもなりたくない。しかし、母国が戦争に負けますと敵国から奴隷のような扱いを受けることは覚悟しなくてはいけない。裕福な暮らしをしていても大災害で生活基盤を失えば、奴隷のような貧しい生活をするかもしれない。

 借金も恐ろしい。借金で奴隷の気分を味わう人は多い。借金返済のために一生奴隷のように働いている自分に気が付いて嘆く人は多い。古今東西を問わない・・・よくある話です。

 でも、よくよく考えてみたら、ご先祖様のアダムがエデンの園すなわち楽園すなわちから追放されてから、人(アダム)は、額に汗をかいて重労働するように神様から罰を受けたのです。

 それで、人間の心に奴隷の心が存在しているのでしょうか。自由人と奴隷が共存しているような自分自身の体や心。締め切りに追われて過労状態にいる自分を奴隷だと思ったことはありませんか。

 そのようなときに心に響いてきたのが、イエス様の言葉です。マタイによる福音書11章28~30節の言葉です。(ネストレアーラント第28版のギリシャ語原文テキスト)28節は文字通りの順番で読むと詩のようです。

「来なさい、私のもとに、みんな、疲れている人よ、荷を負い続けて。私が休ませる」

とあります。29,30節はこうです。()書きは文字通りの訳。

「私と共に荷を負いなさい(私の軛をかけなさい)。知るよ、私がやさしく謙虚なので魂に休みが来ると。私がやさしく共に荷を負い(私の軛はかけやすく)私の荷は軽いから」

 

 

 

十字架におけるイエスの愛、ヤジロー

 イエス・キリストの愛は、十字架の愛が一番です。

十字架の愛は、罪などに苦しむ人を救うために、罪の身代わりとして、身代わりの犠牲で、イエス様が十字架に架かられた愛です。これは、イエス様の祈りにある「御心がなりませ」という祈りと連動していて、キリスト(救世主、救い主)としての本来の願いつまり本願が成就のための愛、それが、イエス様の犠牲による十字架の愛です。

 「御心が地になるように」との願いが、イエス様の本願であることは間違いないのですが・・・つまり、浄土真宗には十字架が隠されているのです。十字架は隠さないと十字架に架けられるという恐怖が日本を支配していました。今は、その心配がない情報化社会に日本はなっています。隠れキリシタンとして十字架に架けられた日本人は、少なくとも戦後の日本ではいません。

 隠された十字架という言葉では、聖徳太子法隆寺の方が、哲学者の梅原猛により有名ですが。

 救いは悪人のためにあるのです。善人のためにありません。人は集団で生活をしている限り、罪を犯すものです。アダムが独りでいた時にはアダムは罪を犯しませんでしたから。

 アダムとは生物学で言う「最初の人間」ではありません。神様が、ご自分に似せて造られた人間として最初の人間です。つまり、神様を父とした最初の人間です。それで、アダムは神様の楽園(エデンの園)を神様から管理するように任されたのです。それで、そのときに戒めがアダムから与えられたのです。つまり、その戒めを守らないことが罪なのです。罪の始まりともいうのでしょうか。イブ(エバ)と一緒になってからアダムは蛇(サタン)にだまされたイブに誘われて罪を犯しました。

今でも似たようなことは、どこでもあります。

罪に対しての言い訳も、初めのときと似たような法則が働きます。

罪を犯すと汚れますので、汚れから清められる必要がある。清められるとは犯した罪が消え去ることですから、神様と楽園で顔と顔を合わせるように会えます。

心の清い人は神様と会えるのです。

 ここから先は、理屈ではありません。信仰の世界です。イエス様が十字架に架けられた姿を思い浮かべて祈るだけなのです。それだけで、清められるのです。たとえ、刑務所に入っていようと、前科何犯であろうと。人の世界は罪人を作ります。集団生活は、必ず罪を生みます。清められると楽園にいるようです。罪の汚れがなくなりますから。

 十字架の愛を信じるかどうかだけです。キリスト教における本願成就の方法は簡単です。イエス様の十字架をキリスト(救世主)による救いと信じるだけです。 

 

誰でも過労死の危険

                         ヨハネ・ヤジロー

 誰でも過労死をする危険がある。交通事故で死人が出るのと同じだ。

これは、世界共通の危険で古代からある。つまり、奴隷が存在したときからだ。

古代の戦争の目的は単純だった、と歴史の先生が言うのを学生時代に聴いた。

つまり、戦争に負けた方が奴隷になるのだ。勝った方は自由人だ。「自由か、しからずんば死を」という戦争だった、という。それに類似したことは今も世界中である。

 しかし、人間の本能は自由を求める。本能だけでは、常に生死をかけた戦いが延々と続く。それで、戦争の悲惨さを知る孔子は、礼とか様々な徳を説く。衣食住足りて礼節を知る、ということで何千年にもわたり、奴隷の待遇改善がはかられてきた。

 勝者がいれば敗者がいる。敗者にきつい、汚い、危険な仕事が来るものだ。つまり、敗者は常に過労死の危険にさらされている。病気になりやすい。つまり、過労が引き金になって死んでいくのだ。奴隷は一定の確率で過労死をするようになっている。自殺よりは病死が多いだろう。

 最近の日本では、外国人労働者をよく見かける。それで、それに関する法改正がなされるが、これは外国人を日本人と対等に扱わないですむ法、つまり、外国人を堂々と奴隷扱いできる法律だ。先進国と名乗れない法だ。恥ずかしくないのだろうか。

 しかし、もっと恥ずかしいのは、それに気が付かない日本人が多いことだ。それは、日本人の多くが奴隷として扱われることに千年単位でならされてきているからだ。これは、スレイブ・メンタリティーといって、奴隷としての精神構造をいつのまにか、気が付かないで持っているのだ。日本人は奴隷扱いを受けることになれされているのだ。

 それで、「何々をいつまでにしなくていけない」、「何々はこうしなければならない」という「何々せねばならない」という精神構造で過労していくのだ。その最終ゴールに過労死がある。大体、多くの場合、何らかの病気になって死なないものだが、数学でいう確率では、過労死はその最終ゴールだ。他人ごとではない。身近な問題だ。

 過労死問題で、モーセに率いられたイスラエル人が集団でエジプトから脱走したほどだ。その集団脱走を防止するために、江戸時代かな?今のお墓の制度が造られた。

現代の中国では、都市の戸籍と農村の戸籍だ。中国の農村の人々は明らかに奴隷として扱われている。日本はまだよい。檀家制度が崩壊してきている。お墓の概念が崩れだしてきている。日本人の中では奴隷制度の一つが崩壊してきている。しかし、新たな奴隷制度を貧しい外国人を対象に適用しようと新たに法律を作るのはスレイブ・メンタリティーが、伝統的に日本人の心の中に深く浸透しているからではないか。

 イエス・キリストの福音とは奴隷解放の良き知らせでもあるのだ。真理や真実は人を自由にするのだ。本当のクリスチャンとは自由人だ。奴隷ではない。

しかし、クリスチャンの中にスレイブ・メンタリティーを持った人々はかなりの数で日本にいる。このため、日本でクリスチャンになる人が少ない。教会に来ても奴隷扱いではやってられない。奴隷から解放される場所こそが、イエス・キリストの教会でなければならないのだ。

 もっとシンプルに宣べる。

安息日を守ろう!」

 安息日に教会に来て、奴隷のように奉仕をするな、働くな!そんなことをするのは偽クリスチャンだ。教会に来て過労死をするクリスチャンがいた。こんな教会が、どうして、イエス・キリストの教会なのだ。奴隷解放をしてこそ、イエス・キリストの教会なのだ。だから、日本で神様はクリスチャンの数を増やされないのだ。

 過労死に対処するためにユダヤ人の先祖であるイスラエル人はモーセを通して神様から戒め(十戒の一つ)を授かる。安息日の戒めだ。

出エジプト記31章12~17節にある(ヘブライ語テキストからの私訳)。

 主(我らの神)はモーセにこのように告げられた。

「あなたはイスラエル人(イスラエルの子ら、子孫)にこのように語りなさい。

『必ず、私の安息日を守るのだ。代々(よよ)にわたり、私となんじらとの間の証印(しるし)なのだ。主なる私が、なんじらを聖とする方であると知るためだ。

なんじらは安息日を守るのだ。安息日はなんじらにとって聖なる日だ。安息日を汚すと死ぬ、死ぬのだ。(死刑になるのと同じだ。)安息日に仕事をする者はみんなだ。

その者の命は民の中から断たれるのだ。六日間、仕事はするものだ。そして、七日目は安息日だ。主による完全休養の聖なる安息日だ。安息日に仕事をする者は誰でも死ぬ、死ぬことになる。(死刑になるのと同じだ。)イスラエル人は安息日を守るのだ。安息日に休むのだ。代々にわたる永遠の契約として。

私とイスラエル人と証印(しるし)、それは永遠だ。それは、主が六日間で天と地を造られ七日目に仕事(みわざ)を休まれ休養されたからだ。』。」

 

 

クリスマス余話

 

星の古記録 (岩波新書)

星の古記録 (岩波新書)

 

 

                        ヨハネ・ヤジロー

 今日は12月20日の木曜日。今いる福岡は暖かい。金曜日にイエス様は十字架に架けられ日曜日に復活された。日曜日はクリスマス礼拝。次の日の夕べにはクリスマス・イブ礼拝。最近、会えないマリアも来るかも知れない。教会に行こう。そして25日。メリー・クリスマス。

 日が短くなってもクリスマス辺りを境に日が長くなって来る1年の境目が、キリスト降誕祭。英語ではChristmasつまりキリストChristとマスmasの組み合わせ、マスは祭りなのでキリスト祭り。しかし、英語のChristmasをキリスト祭りなどと素直に訳さず、日本ではクリスマスと訳している。世界最大のお祭りに日本人も参加するとき、キリスト祭りとかキリスト降誕祭とか救世主降誕祭とか訳さずにクリスマスとどうして訳したのかな。

日本の歴史等の影響を考えなければ、サンタのおじさんのプレゼントの方が天の父なるプレゼント、神の子イエス・キリストよりも大切と思って、キリスト祭りとかキリスト降誕祭と訳さず、クリスマスと訳したのかな。蛇足だけど英語のXmasのXはギリシャ語のキリストΧριστοσの頭文字。

キリストをヘブライ語ではメシア(救世主、救い主:文字通り訳せば、油注がれし方。聖なる油を頭に注いで聖職に任命する儀式に由来して、任命された最高クラスが救世主なので、主に救世主という意味に使われるようになったのかな)。メサイアもメシアつまりキリストのこと。「油を注ぐ」という動詞クリオ(キリオ)の名詞がキリスト。この油はオリーブ油(オイル)。インドや東アジアの灌頂の儀式との違いは水と油の違いなのだけど、これにはオリーブ栽培の有無が影響をしているかもしれない。とにかく、キリストという言葉には伝統的な儀式を感じる。

 このようなお祭りの日を定めるには政治的な配慮がいるのが、世の常で、闇の支配が強まっていくときから光の支配が強まっていく境目あたりの日、つまり、日が短くなっていくときから日が長くなっていく境目あたりの日にクリスマスの日が選ばれたのだろうけど・・・その詳細を語るのは避けられたかも知れない。異論や意見など、このようなときには多く出るので、楽をするには少数の者による秘密会談が良い。クリスマスは、メリークリスマスといって楽しむものだから。お祭りなのだから。

 つまり、クリスマスの日を定めた人々にとっては、大多数の共感を得ることの方が、大切だったので、真面目にイエス様がキリストとしてお生まれになった日を特定することは、それほど、大切ではなかった。共感を得るという政治の方が大切だった。

 しかし、世の中の進歩や発展のためには、政治的なセンスがない人も大きく役に立つことがあるもの。神様が造られたこの世界は例外だらけで政治的な常識などでは裁けないことが多い。その政治的なセンスのなさというか、意図的にカトリックの政治を無視した純粋な天才というべきか、キリストのお生まれになった日を特定しようとした天才がいる。

 聖書中心主義のプロテスタントヨハネス・ケプラーだ。ケプラーの法則で知られている天文物理学のご先祖様のような人だ。私もプロテスタントに属するクリスチャンなので、彼の発想は自然なものとして受け止められる。しかし、彼の時代は宗教改革の嵐が吹き荒れる時だ。カトリックの政敵になりやすかった。彼の母は魔女の疑いで宗教裁判に架けられる。彼は母の弁護をする。何とか結果を出すが、彼自身も迫害を受けた。カトリックが支持する天動説を膨大な天文データを解析して地動説が正しいと証明するような人です・・・彼にとっては、これが神学だったのです。当時、最高の学問は神学です。命がけで学問をしていた。純粋な学者だった。ガリレオのような政治センスは、なかった。「それでも地球は回っている」と一人つぶやくような。

 ところが、ケプラーにとって、結構な収入になったのが偉い人を相手にする星占い。

偶然に左右されるのが人生だから、今も星占いをする人々がいる。その星占いの大先輩が彼にとっては東方の博士たち。新約聖書の底本(ギリシャ語)を見れば彼らのことをマゴスと書いている。彼らもまた天文博士だったが、拝火教ゾロアスター教)の高僧と思われ、博士ではなくマギ僧とも訳せるかな。ゾロアスター教ユダヤ教だけではなく日本の仏教にも影響を与えているようです。西遊記に出てくる三蔵法師のモデル玄奘は、ゾロアスター教徒たちとも交流があった。天竺(インド)にもキリスト教があった。相手の良いところを見ては取り入れるのは、今もそうですが、中国人の18番、その流れを汲むのが日本の仏教。それで、日本の仏教とキリスト教は共通点が多い。

大乗仏教などノアの箱舟の発想です。それを思えば、クリスマスが日本のお祭りの一つになっても、不思議ではないかも知れない。

さて、ゾロアスター教の坊さんであるマゴスとかマギとかいう言葉に源泉があるのが英語のマジックと言う言葉。それでも、彼らをマジシャンと訳すのは、今の言葉の使われかたから無理があり、魔術師とか魔法使いのほうがまだ良いか。女性だったら魔女か。

とにかく、マタイによる福音書に記述されている東方の博士たちは、ユダヤの国を属国として支配していたローマ帝国の最強のライバルであったパルティア王国から来たと思われる。パルティア王国は、騎馬戦が得意で大平原の戦いでローマ軍を破った実績がある。モンゴル帝国のご先祖様のような国。あのカエサルが、戦死のリスクがあるパルティア遠征に行く準備をしていたときに紀元前44年に元老院で暗殺された。その理由にパルティア遠征のリスクもあったかもしれない。そのカエサルの遠征でカエサルを助けて気に入られた人の息子が、ヘロデ大王。また、クレオパトラはヘロデの実力を認めていた。

 昔、パルティア軍のためにエルサレムで殺されかけたこともあるヘロデ大王は、パルティア王国から来た東方の博士たちの次のような言葉にひどく動揺した、とマタイによる福音書は述べている。

「どこにおられますか、ユダヤ人の王としてお生まれになった方は。その方の星を日が昇る東で見ました。それで、その方を私たちは拝みに参りました。」

そして、ヘロデは東方の博士たちを人に知られぬように招いて、あの星が輝き現れたときを博士たちから丁寧に調べるのです。ヘロデと違ってケプラーは純粋に調べます。

 さて、ヘロデ大王が死んだのは紀元前4年なので、イエス様が生まれたのは紀元前4年よりも前であるとわかっています。イエス様が紀元1年生まれと計算したのは昔のカトリックの坊さんで、今では彼の計算間違いだった、と彼一人の責任にされているよう。その計算よりは、ケプラーの計算の方が優れているというより、比較できない計算だった。科学と政治とは同じ計算をしないことがよくある。データ改ざんもする。

 聖書中心主義のプロテスタントケプラーは真面目にイエス様の生まれたときを福音書の記事から推測しました。また、イエス様の歴史的事実を述べている書物で最も信頼できる書物は福音書といわれている。(夢物語やおとぎ話の形式ではあるけど、その中にある歴史的事実を見抜くのが聖書を読むうえでは肝心。)

 ケプラーは「星が輝き現れた」という言葉に天文学的に注目したようで、この現象は「新星の出現」「すい星」「星の爆発」「星と星の会合」などの現象と彼は考えたようで、最終的に彼は「星と星の会合」と推測しました。

星と星の会合とは夜空にある2つの星が近づいて来て重なってくるように地球から見えるとき、肉眼で見る人間の目には、2つの星が一つの星のように見えるだけではなく、それらの星一つ一つの明るさよりも明るく見えるために、新しい星が現れたように見える現象のこと。

 すると、紀元前7年の5月27日、10月6日、12月1日に三回も魚座木星土星が会合をしているとのことです。彼は、その会合を「星が輝き現れた」と東方の博士たちが言ったのではないかとケプラーは推測した。

 さて、話を戻して、ヘロデの取り調べを詳細に受けた後に東方の博士たちはヘロデのもとから出で行きますと見たのです。東の空で見た星をまた見たのです。きっと、10月6日か12月1日です。旅行のしやすさから見れば10月6日でしょうか。

すると12月25日でないので・・・このケプラーの推測をどう思います。

政治的に不器用だった彼は寒さと貧乏のために天に少し早く召されます。天国で暖かく迎えられ豊かに過ごすために。 メリー・クリスマス。

 

 

 

 

この愛は終わらない

 愛には終わる愛もあります。終わりやすい愛もあります。ギリシャ語でエロスと呼ばれる愛は、誰もが知っている身近に存在する愛ですが、終わりやすい愛です。

エロスの代表格は男と女の愛です。また、仕事や会社への愛、特定のスポーツチームへの愛も終わりやすいものです。生きていても物として存在するものへの愛は、終わりが生じやすい。エロスの特定の部分を特別に表現しようとするとき、日本ではエロと表現します。終わりやすい愛だとわかりやすい表現です。

 福音書は終わらない愛について語ります。その愛はギリシャ語でアガペー(αγαπη)と呼ばれています。福音はイエス・キリストの愛について語ります。

その核心は十字架にかかられたイエス様の惨めな姿にあります。「どうせ、殺されるならば剣を取って華々しく切り死にしたい。ユダヤ民衆の英雄として死にたい」とイエス様の弟子たちは願いました。昔の尊王攘夷の志士たちにも似た愛を彼らは持っていた。しかし、イエス様はご自分一人だけで惨めに殺される死を選ばれました。「人を救った者よ、自らを救え」と敵たちから辱められ無抵抗に惨めに、しかも、激痛の中での死を選ばれました。キリストの愛のゆえに。当時の弟子たちは若かった。イエス様の十字架が全く理解できなかった。死ぬならかっこよく死にたかった。苦しめられている民衆の側に立つ英雄として華々しく戦い、死にたかった。救いの志士として死にたかった。若いペテロたちは惨めに死にたくないとイエス様を否定して逃げました。その逃げる弟子たちをイエス様は愛して見ておられた。ここにもキリストの愛があります。そのような愛だから万人を救えるのです。何もかも見通しておられる。イエス様の前では何も言わずにうめくだけでもいいのです。言いたいことはわかっておられるのです。でも、できるなら、具体的に祈る方が良いのです。それは、イエス様のためではない。自分のためです。イエス様は祈る人を愛して見ておられる。

そのイエス様の愛のまなざしのゆえに弟子たちは立ち直れた。惨めな死をも恐れぬ真の強者としてイエス様の弟子たちは生まれ変わったのです。そこがわからないとキリスト教はわからない。花と散るより十字架を背負って、あの十字架の山を登る道を選ぶ真の強者として、生まれ変われない。復活とは単に生まれ変わるだけではないのです。真に強く生まれ変われます。

 また、今も十字架にかかられた姿でイエス様は私たちを愛しておられます。それは、今の私たちの惨めさや苦しみを知っておられるからです。その私たちを救うために十字架の惨めな姿を私たちに見せてくださるのです。惨めな私たちのために、ご自分を身代わりとして差し出して私たちを救うために。そのことを信じれば救われるのです。

キリスト教は、わかるのが最も難しく、救われるのが最も容易だと言われる所以です。

それで、クリスチャンは祈るとき、十字架にかかられているイエス様を思い浮かべながら祈るのです。すると、自分を苦しめているものが自分の中から抜け出していくのをクリスチャンは知ります。罪を犯さない人はいない。不運や不幸に遭わない人はいない。

その苦しみを背負われて、見捨てず共に行かれ、私たちが犯した罪の身代わりとなって救われるのがイエス・キリストの愛です。

 この愛は、人は罪を犯すものですから、不運や不幸は誰にでも来るものですから、終わりません。この愛がなければ、人は立ち直ることができないから、この愛に終わりはありません。

また、偽善という罪は真にたちが悪いものです。偽善は真実を見えないようにします。

賢く金儲けなどをする日本人の多くは、偽善者であって、人を奴隷のように扱っていても、奴隷という言葉を使いません。この偽善という罪は、幾世代にもわたり、日本では続けられているので、日本人の中には自分が奴隷扱いを受けていることに気が付かない人が多い。そのことを気が付かせてくれるのが福音書です。新約聖書にある福音書で、イエス様が最も憎まれた罪が偽善であるのは、偽善は目に見えないウィルスのような存在だからです。いつの間にか、人を罪人にして人を不幸にしていく。福音書で盲人の話がよく出てくるのも、その辺も悟りなさい、ということです。

 古代から奴隷制度はありまして、信仰の父アブラハムに従っている人々の中に奴隷は多くいたのです。その一人がアブラハムの跡継ぎになる予定でした。ですから、奴隷と言っても待遇の良い奴隷たちが古代からいたのです。日本でもそうです。待遇がひどく悪いケースを日本人の多くは奴隷扱いを受けている言いますが、奴隷制度における奴隷扱いには待遇の良し悪しは関係ありません。待遇の良い奴隷でも奴隷は奴隷です。しかし、アブラハムの跡継ぎとなったのは自由の女サラの息子イサクであったことを忘れてはいけません。自由業にあこがれる人が何故多いのでしょうか。

モーセに率いられた民の中にも奴隷がいたと聖書は述べています。エジプトで奴隷扱いを受けていたから出エジプトであったのに、それでも、モーセに率いられた民の中に奴隷がいたことは律法の中に奴隷の取り扱いが明記されている事実からわかります。そのように古代から現代至るまで奴隷は存在しているのですが、そのことを日本の教育では教えません。社会秩序が乱れるという暗黙の掟が、深く日本に根差しているからです。

イエス・キリストの時代にも奴隷がいました。学校では奴隷が遠い存在であるかのような教えをすることがあります。これは、社会的な偽善です。なぜ、学校でいじめがあるのでしょうか。奴隷頭は奴隷がいないと頭になれない。奴隷制度を維持する方法の典型てなものがいじめです。仲間外れにすることで奴隷制度を維持しようとするのです。

反論があるでしょう。奴隷制度には良い点がある。社会秩序が保たれる、と。

しかし、過労死や自殺の多くは奴隷制度の持つ特徴が顕在化したものです。いくら巧妙に隠しても、その負の側面は、どこかで現れてくるものです。いじめもそうです。心の病の多くもそうなのです。奴隷扱いを受けている人は、心の病にかかりやすいのです。それが、体の病へと発展して行くことは珍しくないのです。しかも、その人だけの問題ではないのです。家族の中に心の病をもたらすのです。日本の中には目には見えない伝統的な奴隷制度のもたらす空気があります。その空気の中に含まれている目に見えないウィルスが様々な病気や不幸の原因となっているのです。

そのウィルスによる病気から救われる単純な方法があります。それは、十字架にかかられているイエス様を心に思い浮かべることです。そして、その十字架を見上げることです。すると、いつの間にか、自分の中にある病気が消え去って行くのです。イエス様がキリストとして自分の病を引き取ってくれているからです。身代わりの愛のゆえに救われて行くのです。苦しみや罪に苦しむのは世の常の事で避けられません。ただ、救われることはできます。それはイエス様の十字架を見上げることです。見上げることなら誰にもできます。救われるとは実に単純な信仰によります。頭がなまじよいと、この単純なことができないことがあります。イエス様はキリスト(救い主、救いの神、救世主)なので、誰にでもできることで誰でも救われます。

また、救われるとは奴隷から自由人になることも意味します。救われたと実感するときには奴隷などの持つ苦しみから解放されたような自由を実感します。

日本人の多くは気が付かないうちに奴隷にされて苦しんでいることが多いものです。

その苦しみを救おうと今もイエス様は十字架の惨めな姿を今もなお私たちに示していてくださいます。

 ヨハネ・ヤジロー

 

日本の奴隷制度

 日本は地理的にも歴史的にも個性があり、奴隷制度もそうだ。

奴隷扱いをされている人に「自分は奴隷だ」と思わせない伝統がある。喜んで働く奴隷をつくるのが日本の伝統だ。伝統的な価値観は目に見えない。日本独特の空気のようなものだろうか。しかし、特有の奴隷制度は、どのような害を日本人個人に及ぼしているだろうか。

日本人は、よく「せっかち」だと言われる。奴隷は大量の仕事をさせられるものだ。すると、富を得るには仕事がよくできる奴隷が必要だ。それで、奴隷は仕事を急ぐように求められる。

それで、せっかちな性格が長年にわたり造られた。時間に厳格なことを美徳とすることで、「自分は奴隷だ」と自覚しないですむ。実に巧妙な伝統だ。勿論、何事にも限度というものがある。しかし、「せっかち」になるのは行きすぎだ。そこに奴隷制度の影を見る。また、現実に大量の仕事をするには、急ぐとミスが生じやすい。急がないでやるなら残業しかない。週休二日制を導入して何が増えたのか。残業時間だ。

 つまり、日本の伝統的な美徳の陰に奴隷制度を見る。建前と本音が同時に存在するのは、日本独特の奴隷制度の証明ではないだろうか。

建前という名の偽善で、人を奴隷にするのだ。しかし、建前だけでは、きついではないか。つらいではないか。長時間働かせられて賃金も安いではないか。先進国の豊かな外国人から見れば奴隷だ。その先進国でも、貧しい移民を「本質的には」奴隷として使っている。奴隷制度は一部の人だけが金と時間が与えられる制度だ。

カルロス・ゴーンを見よ。奴隷制度の上に立つには何をすべきかをよく知っている。

ベルサイユ宮殿で結婚式を再婚相手としたことが、彼が何者かであるかを証明している。日本的偽善がないぶんだけ、彼は正直なのだ。それで、生きているときに彼は人の気持ちを知る。奴隷制度を利用した金儲けを知っていたが、奴隷の気持ちも知るようになる。

奴隷は一人では通常働かない。グループで働く。力を合わせて働くように主人は奴隷を軛(くびき)でつなぐ。そして、軛でつながれた牛のように働かせられる。

そこで救い主イエスは言われる。

「私のもとに来なさい。私の軛は負いやすい」と。

実際、経験してみるとわかる。イエス様の軛は負いやすく軽い。そして、イエス様は親切で暖かい。それで、私は思った。私は今まで奴隷として生きてきた。これからも、奴隷としての生活が続くのならイエス様の奴隷になろう。

 まぁ、とにかく、イエス様以上の主人に私は今まで出会ったことがない。

日本の奴隷制度は深く日本に根付いている。それで、私はイエス様の奴隷になった。

しかし、イエス様は私を奴隷としてではなく友人として待遇をしていてくれる。

そして、私の過ちのために身代わりにもなってくれる。ここに十字架の愛がある。こんなに奴隷のことを愛してくれる神様はイエス様にはいない。

ヨハネ・ヤジロー