イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

休みましょう

 最近、ある人から聞かれた。

「どこの教会(キリスト教)に行けば良いのでしょうか」

私は答えました。

「日曜日に教会は開いています。最寄りの教会に日曜日に行くことです」

彼は言います。

「いや、私が聞いているのは、どこの教会に行くべきかです」

私は答えます。

「教会は休みに行くところです。疲れを取るところです。それで、最も近い教会に行くのが最も良いのです」

彼は言います。

「いや、実は最も近い教会に言ったのです。そこは、みんな忙しそうにしていました。

私は忙しいのは仕事だけで十分です。日曜日まで忙しいのはごめんです。そこの教会では私は疲れを感じたのです」

私は答えました。

「疲れを感じるのは教会ではありません。疲れを取るのが教会です。」

彼は言います。

「それで、どこの教会に行くべきですか」

私は答えます。

「次に近い教会に行くことです」

彼は言います。

「そこでも疲れを感じたら」

私は答えます。

「次に近い所に行くことです」

 このような会話を読んでみて、どう思われますか。

 日本の教会に行く人の数は非常に少ない。それは、教会は無償の奉仕者たちにより成り立っているからです。そこの奉仕者たちが仕事のように忙しく奉仕をしていたら、そこはイエス・キリストの教会でなくなります。

エス様は日曜日に来る人を休ませるために教会をつくられました。

それで、仕事モードでいる奉仕者がいる教会にイエス様は人を導かれません。

日曜日は休みましょう。休みの奉仕とは何か。一緒にのんびりとお話をして好きな賛美歌でも歌っていることです。それが奉仕です。忙しい姿を人に見せれば、イエス様から偽善者として評価されるかも知れません。忙しいと亡者になります。

日曜日には安息の戒め(休みましょう)があります。

その戒めを守る日本の教会は悲しいことに少ない。そんな教会に人が行くでしょうか。

安息日の戒めは、人の心や体の健康のためにある戒めです。日曜日には休みましょう。

その姿が日本の教会でよく見られるようになれば、日本で教会に行く人の数は非常に多くなります。奴隷のょうに働いている人には休める教会が必要です。

日本によくある過労から確実に救われるには、休める教会に行くことです。

休むことが救われることです。これで、多くの人が救われます。休みましょう。

アーメン

男女同権

 男女同権について、イエス様の愛ある言葉について書いてみます。

今でもそうかもしれないですが、男女同権と思わない人が、男性も女性もいます。

エス様の時代には、男女同権と思わない人が主流だったようです。たとえば、お客様が来ると女性の役目は料理などを出す奉仕のおもてなしです。安息日(休日)でもそうです。

安息日は夕方から始まり、次の日の夕方で終わります。日曜日を休日としますと土曜日の夕方から日曜日の夕方までが安息日です。これは1日の定義です。創世記1章にあります。「夕べがあり、朝があった。第〇の日である」という表現があるように、1日は夕方から始まっていました。今は、曜日の感覚で1日の感覚にずれがあるかも知れない。

でも、仕事を休むことを考えたら、一日の始まりは夕方からの方が良いでしょう。それで、夕方の残業で嫌われるのは金曜日の夕方です。金曜日の夕方に飲食をみんなで楽しむのが安息日の感覚です。ユダヤ教安息日は金曜日の夕方から始まります。キリスト教は土曜日の夕方です。

すると、お客様などが来て料理を楽しむのは土曜日の夕方です。安息日に家事などの労働は休日ですからしないので、料理の準備は土曜日の夕方前に終えます。掃除も。

そのような土曜日の夕方に楽しくお客様と一緒に座って話を楽しむのは、典型的な安息日の過ごし方でしょう。

でも、男女同権でないと、料理や話を楽しむのは、男性だけで、安息日と言うのに女性はおもてなしの料理をだすなどの奉仕で忙しいことになります。

 休日がなく働く人を奴隷といいます。人ではない。奴隷です。休日に休めるのが、人です。奴隷でない人には休日がある。休みがある。たとえば、料理を男女ともに楽しむのが男女同権です。

 では、それに関係するイエス様の言葉をルカによる福音書10章38から41節に見ることができます。

{(イエス様の)一行がある村にやって来ました。マルタという名の女性がイエス様を家にむかい入れました。そこにはマリアと呼ばれる彼女の妹(原語は姉妹ですが、妹とここでは訳しています)がいました。マリアはイエス様の足元に座って、イエス様の言葉を聞きます。

でも、マルタはたくさん奉仕をしなければと取り乱していたので、イエス様に近寄って言いました。

「主よ、私の妹には問題がありませんか。私だけにおもてなしをさせているのですよ。言ってください。私の手伝いをするように。」

それで答えて、主は彼女に言われました。

「マルタ、マルタ、多くのことで取り乱しているね。でも、必要なことって少ないよ、一つだけだよ。それで、マリアはね、その一番良いものを選んだのだよ。それを彼女から取ったらいけませんよ。」}

 安息日の理想的な過ごし方は、イエス様に近寄って、そのお話に耳を傾けること。

安息日に奴隷のように働いていますとマルタのような言い方をイエス様にするものです。祈るものです。その点、マリアは男女同権と思っていたようです。イエス様からも喜ばれていました。そう、神様を一番目に愛した。イエス様を一番大切にした。

男尊女卑の奴隷でいたら、イエス様から喜ばれません。また、イエス様のこの言葉からイエス様は男も女も同等の扱いをされていました。

ヨハネ・ヤジロー

 

 

 

 

 

敵を愛せ

 「敵を愛せ」とイエス様は言われる。さらに言われる。善で報いよ、と。

自分を呪う人を祝福せよ、と。自分を侮辱する人のために祈れ、と。ほおをぶたれてももう片方のほおを向けよ、と。

 実際の問題としては、多くの人は反対のことをする可能性がある。たとえば、隣の国の日本に対する最近の敵対的行為だ。日本人から見れば、敵対行為になる。隣の国の政府が何と言おうと。何を楽しんでいるのだ。相手に怒りの感情を与えて、と思う。

 これから先は戦争になる可能性がある。まずは、武力を用いず、経済戦争だ。

エス様の言葉を日本人だけが行うのか。それはない、相手人も行うべきだ、と思う方は善人だ。悪人に活躍をする場を隣の国の政府は与えた。

言葉の段階は終わった。次の段階は経済制裁という名の戦争になるのか。

 一体、誰が得をするのか。それを冷静に考えてから行動をするときが来ている。

日本が行うべき愛とは、知らん顔をして勝手にほおをぶたせとくことか。

その方が、戦争にならなくてよい。経済戦争でも被害は大きい。誰を得させるために隣の国の政府は行動しているのだろうか。得する人よりも損する人が互いに多いのが戦争だ。クールに愛するときが来ているのだろう。熱くなるのは危険だ。多くの犠牲者を出すだけだ。犠牲は避けられない。少数の犠牲ですむ愛が必要だ。十字架を見つめる。

 

人の愛と神様の愛

  人の愛は人生経験を積んでいけば、それなりに知っていけます。でも、神様の愛は全てを知ることは無理です。人間のレベルでの比較でも存在期間が全く違います。人間は百歳も生きれば長寿です。でも、聖書で述べている神様は、人よりも前から存在しているから存在期間が人間から見れば永遠です。それで、人間である私が神様の愛を全て知ることは不可能。つまり、ほんの一部しか知っていない。その事実を前提にしないと何も書けない。神様の愛について。

 そのようなときでも、神様の愛と人の愛の共通部分は、少しは書けます。

共通部分は、神様の愛は、人間から見れば親の愛ではありますが、理想的な親の愛です。私も子供がいますが、子供たちは成人の年齢なのに、神様のように子供を愛してきたとは言えない。試行錯誤の愛です。間違った愛し方をしたことも多かった。その間違いに気づいては修正するという愛です。神様の愛に近づける努力の日々です。

また、神様の愛は人間を妻にたとえると夫の愛です。私には妻がいますが、これもまた試行錯誤の愛です。愛し方を間違えては修正する日々です。30年以上たった今もそうです。亡くなった私の親も私を愛してくれました。でも、人間の愛ですから、いつも正しく愛したわけではない。でも、私は父母の愛に満足しています。人間の愛には限界があるし、間違った愛し方もあることを自分自身の経験から学んで来ましたので、私は私の父母の愛に満足できるようになりました。もっと、積極的に言えます。私と父母との間に残ったものは愛だけです。父母が私を愛してくれたこと、それだけが、父母との間の楽しい思い出です。愛してくれた。それ以外のことは忘れてしまいました。

結局、最後に残るのは愛だけです。

ところが、神様は振り返ってみれば、いつも私を正しく愛してくれました。でも、その正しさに気づくのには、時間がかかることが多かった。最長のもので、現時点では50年ですか。神様が自分の望んでいること直ぐ今してくれなくても、それが正しいことであるということは、幸い、長く生きたので知ることができました。

その点、人間の親は早く結果を欲しがって間違った愛し方をすることがあります。

忍耐して信じる気持ちが必要です。神様に近い愛で愛したければ。短気はいけません。

短気を起こしては間違った愛し方をした経験がたくさんあります。

 また、これは言えると思います。自分の心や体にとことん正直になることです。そうすると修正点が見つけやすい。要するに、正直だと現実に起きている事実を認めることが容易になるのです。ただし、地球が太陽の周りをまわっている事実は、自分の力では認めることはできません。宗教改革者ルターでもそうでした。だから、一人の人間の正直には限界があります。回りから教えられて気が付くことも必要なときがあります。

 現実を認めるには正直さが必要です。最近の日本では、政府の統計に不正確さがあったと問題が起きています。データというものは、大量に取り、それも精度が高ければ高いほど統計処理をしたときに真実を語ってくれるものです。たとえば、そうでないと地動説には説得力がなかった。ケプラーの法則も発見されなかった。

楽して急いで取ったデータは、それほど正直に真実を語ってくれません。それどころか、データを少なく取る操作をすれば、偽りを語ることになりやすい。頭の良い人は偽りを言うために不正な統計操作をすることがあります。それには、時間がかかることがあります。それを人員削減と予算の削減の中でやったというのですから、日本の官僚は優秀です。でも、直ぐに身の周りの人からほめられるという結果を欲しがらなければ、嘘をつく労力は何もいりません。

小細工は信用という大切なものを失います。個人的な出世と私欲で小細工をしたのでしょうか。正直者はバカを見ることはありますが、人間として大切なものは得ます。信用です。いくら頭が良くても早く人から認められたい、早く高く評価されたいと思うと不正な統計操作に手を出しやすくなります。人間には、そのような悲しい所があります。

 どうせ、嘘はいつかばれる。天にはいつもばれている。

人から愛されることより天から愛されることを選ぶべきなのです。これができる人は真の勇者です。見かけはみすぼらしくても。イエス様は小さなロバに乗ってエルサレムに入場されました。立派な馬に乗ってこられなかった。真の勇気、真の愛を見ます。

 

休ませるイエスの愛、ヤジロー

 奴隷のような身分に誰でもなりたくない。しかし、母国が戦争に負けますと敵国から奴隷のような扱いを受けることは覚悟しなくてはいけない。裕福な暮らしをしていても大災害で生活基盤を失えば、奴隷のような貧しい生活をするかもしれない。

 借金も恐ろしい。借金で奴隷の気分を味わう人は多い。借金返済のために一生奴隷のように働いている自分に気が付いて嘆く人は多い。古今東西を問わない・・・よくある話です。

 でも、よくよく考えてみたら、ご先祖様のアダムがエデンの園すなわち楽園すなわちから追放されてから、人(アダム)は、額に汗をかいて重労働するように神様から罰を受けたのです。

 それで、人間の心に奴隷の心が存在しているのでしょうか。自由人と奴隷が共存しているような自分自身の体や心。締め切りに追われて過労状態にいる自分を奴隷だと思ったことはありませんか。

 そのようなときに心に響いてきたのが、イエス様の言葉です。マタイによる福音書11章28~30節の言葉です。(ネストレアーラント第28版のギリシャ語原文テキスト)28節は文字通りの順番で読むと詩のようです。

「来なさい、私のもとに、みんな、疲れている人よ、荷を負い続けて。私が休ませる」

とあります。29,30節はこうです。()書きは文字通りの訳。

「私と共に荷を負いなさい(私の軛をかけなさい)。知るよ、私がやさしく謙虚なので魂に休みが来ると。私がやさしく共に荷を負い(私の軛はかけやすく)私の荷は軽いから」

 

 

 

十字架におけるイエスの愛、ヤジロー

 イエス・キリストの愛は、十字架の愛が一番です。

十字架の愛は、罪などに苦しむ人を救うために、罪の身代わりとして、身代わりの犠牲で、イエス様が十字架に架かられた愛です。これは、イエス様の祈りにある「御心がなりませ」という祈りと連動していて、キリスト(救世主、救い主)としての本来の願いつまり本願が成就のための愛、それが、イエス様の犠牲による十字架の愛です。

 「御心が地になるように」との願いが、イエス様の本願であることは間違いないのですが・・・つまり、浄土真宗には十字架が隠されているのです。十字架は隠さないと十字架に架けられるという恐怖が日本を支配していました。今は、その心配がない情報化社会に日本はなっています。隠れキリシタンとして十字架に架けられた日本人は、少なくとも戦後の日本ではいません。

 隠された十字架という言葉では、聖徳太子法隆寺の方が、哲学者の梅原猛により有名ですが。

 救いは悪人のためにあるのです。善人のためにありません。人は集団で生活をしている限り、罪を犯すものです。アダムが独りでいた時にはアダムは罪を犯しませんでしたから。

 アダムとは生物学で言う「最初の人間」ではありません。神様が、ご自分に似せて造られた人間として最初の人間です。つまり、神様を父とした最初の人間です。それで、アダムは神様の楽園(エデンの園)を神様から管理するように任されたのです。それで、そのときに戒めがアダムから与えられたのです。つまり、その戒めを守らないことが罪なのです。罪の始まりともいうのでしょうか。イブ(エバ)と一緒になってからアダムは蛇(サタン)にだまされたイブに誘われて罪を犯しました。

今でも似たようなことは、どこでもあります。

罪に対しての言い訳も、初めのときと似たような法則が働きます。

罪を犯すと汚れますので、汚れから清められる必要がある。清められるとは犯した罪が消え去ることですから、神様と楽園で顔と顔を合わせるように会えます。

心の清い人は神様と会えるのです。

 ここから先は、理屈ではありません。信仰の世界です。イエス様が十字架に架けられた姿を思い浮かべて祈るだけなのです。それだけで、清められるのです。たとえ、刑務所に入っていようと、前科何犯であろうと。人の世界は罪人を作ります。集団生活は、必ず罪を生みます。清められると楽園にいるようです。罪の汚れがなくなりますから。

 十字架の愛を信じるかどうかだけです。キリスト教における本願成就の方法は簡単です。イエス様の十字架をキリスト(救世主)による救いと信じるだけです。 

 

誰でも過労死の危険

                         ヨハネ・ヤジロー

 誰でも過労死をする危険がある。交通事故で死人が出るのと同じだ。

これは、世界共通の危険で古代からある。つまり、奴隷が存在したときからだ。

古代の戦争の目的は単純だった、と歴史の先生が言うのを学生時代に聴いた。

つまり、戦争に負けた方が奴隷になるのだ。勝った方は自由人だ。「自由か、しからずんば死を」という戦争だった、という。それに類似したことは今も世界中である。

 しかし、人間の本能は自由を求める。本能だけでは、常に生死をかけた戦いが延々と続く。それで、戦争の悲惨さを知る孔子は、礼とか様々な徳を説く。衣食住足りて礼節を知る、ということで何千年にもわたり、奴隷の待遇改善がはかられてきた。

 勝者がいれば敗者がいる。敗者にきつい、汚い、危険な仕事が来るものだ。つまり、敗者は常に過労死の危険にさらされている。病気になりやすい。つまり、過労が引き金になって死んでいくのだ。奴隷は一定の確率で過労死をするようになっている。自殺よりは病死が多いだろう。

 最近の日本では、外国人労働者をよく見かける。それで、それに関する法改正がなされるが、これは外国人を日本人と対等に扱わないですむ法、つまり、外国人を堂々と奴隷扱いできる法律だ。先進国と名乗れない法だ。恥ずかしくないのだろうか。

 しかし、もっと恥ずかしいのは、それに気が付かない日本人が多いことだ。それは、日本人の多くが奴隷として扱われることに千年単位でならされてきているからだ。これは、スレイブ・メンタリティーといって、奴隷としての精神構造をいつのまにか、気が付かないで持っているのだ。日本人は奴隷扱いを受けることになれされているのだ。

 それで、「何々をいつまでにしなくていけない」、「何々はこうしなければならない」という「何々せねばならない」という精神構造で過労していくのだ。その最終ゴールに過労死がある。大体、多くの場合、何らかの病気になって死なないものだが、数学でいう確率では、過労死はその最終ゴールだ。他人ごとではない。身近な問題だ。

 過労死問題で、モーセに率いられたイスラエル人が集団でエジプトから脱走したほどだ。その集団脱走を防止するために、江戸時代かな?今のお墓の制度が造られた。

現代の中国では、都市の戸籍と農村の戸籍だ。中国の農村の人々は明らかに奴隷として扱われている。日本はまだよい。檀家制度が崩壊してきている。お墓の概念が崩れだしてきている。日本人の中では奴隷制度の一つが崩壊してきている。しかし、新たな奴隷制度を貧しい外国人を対象に適用しようと新たに法律を作るのはスレイブ・メンタリティーが、伝統的に日本人の心の中に深く浸透しているからではないか。

 イエス・キリストの福音とは奴隷解放の良き知らせでもあるのだ。真理や真実は人を自由にするのだ。本当のクリスチャンとは自由人だ。奴隷ではない。

しかし、クリスチャンの中にスレイブ・メンタリティーを持った人々はかなりの数で日本にいる。このため、日本でクリスチャンになる人が少ない。教会に来ても奴隷扱いではやってられない。奴隷から解放される場所こそが、イエス・キリストの教会でなければならないのだ。

 もっとシンプルに宣べる。

安息日を守ろう!」

 安息日に教会に来て、奴隷のように奉仕をするな、働くな!そんなことをするのは偽クリスチャンだ。教会に来て過労死をするクリスチャンがいた。こんな教会が、どうして、イエス・キリストの教会なのだ。奴隷解放をしてこそ、イエス・キリストの教会なのだ。だから、日本で神様はクリスチャンの数を増やされないのだ。

 過労死に対処するためにユダヤ人の先祖であるイスラエル人はモーセを通して神様から戒め(十戒の一つ)を授かる。安息日の戒めだ。

出エジプト記31章12~17節にある(ヘブライ語テキストからの私訳)。

 主(我らの神)はモーセにこのように告げられた。

「あなたはイスラエル人(イスラエルの子ら、子孫)にこのように語りなさい。

『必ず、私の安息日を守るのだ。代々(よよ)にわたり、私となんじらとの間の証印(しるし)なのだ。主なる私が、なんじらを聖とする方であると知るためだ。

なんじらは安息日を守るのだ。安息日はなんじらにとって聖なる日だ。安息日を汚すと死ぬ、死ぬのだ。(死刑になるのと同じだ。)安息日に仕事をする者はみんなだ。

その者の命は民の中から断たれるのだ。六日間、仕事はするものだ。そして、七日目は安息日だ。主による完全休養の聖なる安息日だ。安息日に仕事をする者は誰でも死ぬ、死ぬことになる。(死刑になるのと同じだ。)イスラエル人は安息日を守るのだ。安息日に休むのだ。代々にわたる永遠の契約として。

私とイスラエル人と証印(しるし)、それは永遠だ。それは、主が六日間で天と地を造られ七日目に仕事(みわざ)を休まれ休養されたからだ。』。」