イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

滝廉太郎と讃美歌

 天才作曲家であった滝廉太郎は、クリスチャンであり、今度、新5千円札の顔になる津田梅子は、キリスト教会で、滝廉太郎の弾くオルガンで讃美歌を歌っていたと思われます。

 荒城の月は欧州の一部では讃美歌の曲として使われています。それで、滝廉太郎の花という曲を見ました。すると、花の歌詞を見ながら5分から10分で讃美歌の作詞ができました。替え歌ですが、やはり、滝廉太郎はクリスチャンであったと思いました。

 たとえば、こんな風に作詞できます。

 題は、花のエルサレムとしましょうか。

「春のうららのエルサレム 上り下りの旅人が あがむる神殿 かがやきて

ながめを何にたとうべき 見ずや あけぼの 露あびて われに物言う

アーモンド(桜の仲間で春に白いアーモンドの花をイスラエルで咲かせます)

見ずや 夕ぐれ 手を伸べて われ 差し招くオリーブを

錦(にしき)織りなす長城(ちょうじょう)に 暮るればのぼるおぼろ月

げに一刻も千金のながめを何にたとうべき」

旧約聖書エレミヤ書1章11節にありますが、主なる神様は予言者エレミヤに言われます。「何を見ている」。エレミヤは言いました。「アーモンドの木の枝を見ています」

イスラエルで最も偉大な予言者はモーセですが、その兄アロンの杖はアーモンドの枝です。つまり、日本人から見ればその杖は桜の枝です。それは、契約の箱に納められました。御神輿で担がれる最も神聖な箱に納められるものです。日本人には三種の神器を連想させます。

そこで、「われに物言う桜木を」という歌詞から「われに物言うアーモンド」という歌詞が連想されるのです。アーモンドのヘブライ語の動詞形は「目覚める」という意味ですので、アーモンドには「目覚めの木」という意味があります。春に先駆けて咲く花、アーモンドの花は日本人から見れば桜の花です。

エス様の復活を祝うイースターも春祭りの一つです。目覚めは復活を連想させる言葉です。つまり、 滝廉太郎の花は復活の喜びを歌う讃美歌の曲となると思います。

 それから、青柳をオリーブに変更したのは、キリストのイメージからです。

キリストは「油注ぎ」から来た言葉ですが、その油はオリーブの実から作られたオリーブオイルです。つまり、聖職に任命する人を差し招いてその頭にオリーブオイルを注ぐイメージがキリストと言う言葉の持つイメージです。キリストは油を注ぐという動詞をギリシア語化した名詞です。その油を注ぐ任命の最高の儀式のイメージ、つまり、大祭司への任命式から来た言葉が、キリストですので、青柳をオリーブと変更しました。

 このように言葉に書けば長くて堅苦しいのですが、実際は、理屈抜きに直ぐにわくイメージなのです。クリスチャンであれば。そこが、滝廉太郎の「花」という曲の持つ魅力です。これはまた復活の喜びを歌う曲にもなります。作詞をしてみられることをお勧めします。滝廉太郎の荒城の月は最後の晩餐のイメージです。また、ハレルヤという言葉が、直ぐに浮かんでくる曲です。これには厳かな神聖さがあります。

最後の晩餐は春祭りの出来事です。

 さて、日本語による讃美歌の作詞が本当にイメージしやすい曲。それが、滝廉太郎の曲です。

 

みじめさからの救い

 惨(みじ)めな経験は誰でもするものだけど、ある日、突然、死ぬときがやって来る。そして、惨めなままに死ぬことがある。

 大災害や戦争もそうだけど、交通事故に巻き込まれて一瞬のうちに予想もせずに死ぬこともある。しかも、年齢も赤ちゃんから高齢者まで様々だ。

パウロの書いた手紙の一つに中の第1コリント15章を読んでいると、人は惨めなままに死ぬことがあっても良いのだ、と思う。いや思うというよりは信じる、と言う方が正確だ。

今生きているときを現世というなら、死んだ後は来世だ。来世に生きることをクリスチャンは復活するという。

 キリスト教を知らない人の批判はイエス・キリストの十字架に集中する。あれほど、惨めな死はない、と。とても、あのような惨めな死をした人を神様、救い主(キリスト)と信じれるものかと。

 でも、復活があると信じることができれば、そんな批判は吹き飛ぶ。十字架にかけた連中のほうが恐れおののくべきだから。実際、イエス様を十字架にかけるための主犯格はユダヤの上層階級の宮様派(サドカイ派)だ。サドカイ派は来世の復活を信じない。エルサレムのお宮(神殿)の祭司階級の上層階級を中心としている。

人は上に行けば行くほど、下に行けば行くほど、無法者になりやすいとか言う人がいたけれど、そのような両者がイエス様を十字架に付けた。

彼らは現世第1主義者で来世を考えることはない。それよりは、今、飲み食いして楽しむことを優先する。そのような人から見れば、信仰のあるクリスチャンは惨めな者たちの集まりにしか過ぎないだろう。

 つまり、惨めさからの救いは、イエス様の復活を信じるかどうかだけなのだ。

クリスチャンの信仰は実に単純なのだ。イエス様が十字架にかけられた後に復活されたことを信じるものがクリスチャンなのだ。教会に籍があるクリスチャンと言う意味ではないよ。復活を信じない教会のメンバーもいるという事実は今も昔も変わらない。

 聖パウロの手紙は、本質的に、今も昔もクリスチャンには復活を信じる者のいれば信じない者もいるという事実を述べている。第1コリント15章にあるように。

 ただし、今もこれからも幸せに生きたいと願うなら、イエス様の復活を信じることだ。後は、イエス様に任せての復活だから。このことは、人間の頭で考えてもわかるものではないよ。狂人になって哲学を述べた所で、見かけの理論は現実を鋭く分析しているように見せても、行き着く先は、そう、生きているときは天才扱いされても、百年もたてば、惨めな狂人扱いだ。生きているときは巨人扱いを受けても。

しかし、人の評価は時代の空気を反映する。その時代が狂っていれば、狂人が評価される。百年たたなければ、正確な評価というのは難しいと言われている。

ヒトラーを見よ。しかし、今だけを考えていると狂人を天才だと勘違いするだろう。

 イエス様の十字架を仰ぎ見れば、本当の天才と狂人の違いが見えて来る。

今の今、評価されたいと思っていたら、狂人のお芝居を天才の言動と勘違いする。

芸人で覚せい剤とか麻薬を使う人がいる。それは、芸は天才同様に上手にできるだろうけど、副作用という支払いが待っている。狂人になる支払いだ。

 それに、とにかく、本物と偽物の見分けは「時代の空気という物差し」のために見間違えやすい。イエス様を十字架に付けた後にユダヤ人の国は速やかに消滅していく。

当時のユダヤ人の現人神思想、現世でのご利益第一主義の行きつく先は亡国であった。極地の惨めさの方が真理であった。真実だった。これは、人の実力などたかが知れているということだ。

エス様の十字架を思い、復活を信じる方が、今は惨めでも、救いがある。

生きているときが全て惨めであっても救いがある。ラザロのように生きても復活があるかぎり惨めさからの救いがある。

 イエス様の十字架を仰ぎ見て、死後の復活を信じる。これができるようになると、不平や不満が消えて行く。感謝できないことばかりでも平安があり生きていける。

 

休みましょう

 最近、ある人から聞かれた。

「どこの教会(キリスト教)に行けば良いのでしょうか」

私は答えました。

「日曜日に教会は開いています。最寄りの教会に日曜日に行くことです」

彼は言います。

「いや、私が聞いているのは、どこの教会に行くべきかです」

私は答えます。

「教会は休みに行くところです。疲れを取るところです。それで、最も近い教会に行くのが最も良いのです」

彼は言います。

「いや、実は最も近い教会に言ったのです。そこは、みんな忙しそうにしていました。

私は忙しいのは仕事だけで十分です。日曜日まで忙しいのはごめんです。そこの教会では私は疲れを感じたのです」

私は答えました。

「疲れを感じるのは教会ではありません。疲れを取るのが教会です。」

彼は言います。

「それで、どこの教会に行くべきですか」

私は答えます。

「次に近い教会に行くことです」

彼は言います。

「そこでも疲れを感じたら」

私は答えます。

「次に近い所に行くことです」

 このような会話を読んでみて、どう思われますか。

 日本の教会に行く人の数は非常に少ない。それは、教会は無償の奉仕者たちにより成り立っているからです。そこの奉仕者たちが仕事のように忙しく奉仕をしていたら、そこはイエス・キリストの教会でなくなります。

エス様は日曜日に来る人を休ませるために教会をつくられました。

それで、仕事モードでいる奉仕者がいる教会にイエス様は人を導かれません。

日曜日は休みましょう。休みの奉仕とは何か。一緒にのんびりとお話をして好きな賛美歌でも歌っていることです。それが奉仕です。忙しい姿を人に見せれば、イエス様から偽善者として評価されるかも知れません。忙しいと亡者になります。

日曜日には安息の戒め(休みましょう)があります。

その戒めを守る日本の教会は悲しいことに少ない。そんな教会に人が行くでしょうか。

安息日の戒めは、人の心や体の健康のためにある戒めです。日曜日には休みましょう。

その姿が日本の教会でよく見られるようになれば、日本で教会に行く人の数は非常に多くなります。奴隷のょうに働いている人には休める教会が必要です。

日本によくある過労から確実に救われるには、休める教会に行くことです。

休むことが救われることです。これで、多くの人が救われます。休みましょう。

アーメン

男女同権

 男女同権について、イエス様の愛ある言葉について書いてみます。

今でもそうかもしれないですが、男女同権と思わない人が、男性も女性もいます。

エス様の時代には、男女同権と思わない人が主流だったようです。たとえば、お客様が来ると女性の役目は料理などを出す奉仕のおもてなしです。安息日(休日)でもそうです。

安息日は夕方から始まり、次の日の夕方で終わります。日曜日を休日としますと土曜日の夕方から日曜日の夕方までが安息日です。これは1日の定義です。創世記1章にあります。「夕べがあり、朝があった。第〇の日である」という表現があるように、1日は夕方から始まっていました。今は、曜日の感覚で1日の感覚にずれがあるかも知れない。

でも、仕事を休むことを考えたら、一日の始まりは夕方からの方が良いでしょう。それで、夕方の残業で嫌われるのは金曜日の夕方です。金曜日の夕方に飲食をみんなで楽しむのが安息日の感覚です。ユダヤ教安息日は金曜日の夕方から始まります。キリスト教は土曜日の夕方です。

すると、お客様などが来て料理を楽しむのは土曜日の夕方です。安息日に家事などの労働は休日ですからしないので、料理の準備は土曜日の夕方前に終えます。掃除も。

そのような土曜日の夕方に楽しくお客様と一緒に座って話を楽しむのは、典型的な安息日の過ごし方でしょう。

でも、男女同権でないと、料理や話を楽しむのは、男性だけで、安息日と言うのに女性はおもてなしの料理をだすなどの奉仕で忙しいことになります。

 休日がなく働く人を奴隷といいます。人ではない。奴隷です。休日に休めるのが、人です。奴隷でない人には休日がある。休みがある。たとえば、料理を男女ともに楽しむのが男女同権です。

 では、それに関係するイエス様の言葉をルカによる福音書10章38から41節に見ることができます。

{(イエス様の)一行がある村にやって来ました。マルタという名の女性がイエス様を家にむかい入れました。そこにはマリアと呼ばれる彼女の妹(原語は姉妹ですが、妹とここでは訳しています)がいました。マリアはイエス様の足元に座って、イエス様の言葉を聞きます。

でも、マルタはたくさん奉仕をしなければと取り乱していたので、イエス様に近寄って言いました。

「主よ、私の妹には問題がありませんか。私だけにおもてなしをさせているのですよ。言ってください。私の手伝いをするように。」

それで答えて、主は彼女に言われました。

「マルタ、マルタ、多くのことで取り乱しているね。でも、必要なことって少ないよ、一つだけだよ。それで、マリアはね、その一番良いものを選んだのだよ。それを彼女から取ったらいけませんよ。」}

 安息日の理想的な過ごし方は、イエス様に近寄って、そのお話に耳を傾けること。

安息日に奴隷のように働いていますとマルタのような言い方をイエス様にするものです。祈るものです。その点、マリアは男女同権と思っていたようです。イエス様からも喜ばれていました。そう、神様を一番目に愛した。イエス様を一番大切にした。

男尊女卑の奴隷でいたら、イエス様から喜ばれません。また、イエス様のこの言葉からイエス様は男も女も同等の扱いをされていました。

ヨハネ・ヤジロー

 

 

 

 

 

敵を愛せ

 「敵を愛せ」とイエス様は言われる。さらに言われる。善で報いよ、と。

自分を呪う人を祝福せよ、と。自分を侮辱する人のために祈れ、と。ほおをぶたれてももう片方のほおを向けよ、と。

 実際の問題としては、多くの人は反対のことをする可能性がある。たとえば、隣の国の日本に対する最近の敵対的行為だ。日本人から見れば、敵対行為になる。隣の国の政府が何と言おうと。何を楽しんでいるのだ。相手に怒りの感情を与えて、と思う。

 これから先は戦争になる可能性がある。まずは、武力を用いず、経済戦争だ。

エス様の言葉を日本人だけが行うのか。それはない、相手人も行うべきだ、と思う方は善人だ。悪人に活躍をする場を隣の国の政府は与えた。

言葉の段階は終わった。次の段階は経済制裁という名の戦争になるのか。

 一体、誰が得をするのか。それを冷静に考えてから行動をするときが来ている。

日本が行うべき愛とは、知らん顔をして勝手にほおをぶたせとくことか。

その方が、戦争にならなくてよい。経済戦争でも被害は大きい。誰を得させるために隣の国の政府は行動しているのだろうか。得する人よりも損する人が互いに多いのが戦争だ。クールに愛するときが来ているのだろう。熱くなるのは危険だ。多くの犠牲者を出すだけだ。犠牲は避けられない。少数の犠牲ですむ愛が必要だ。十字架を見つめる。

 

人の愛と神様の愛

  人の愛は人生経験を積んでいけば、それなりに知っていけます。でも、神様の愛は全てを知ることは無理です。人間のレベルでの比較でも存在期間が全く違います。人間は百歳も生きれば長寿です。でも、聖書で述べている神様は、人よりも前から存在しているから存在期間が人間から見れば永遠です。それで、人間である私が神様の愛を全て知ることは不可能。つまり、ほんの一部しか知っていない。その事実を前提にしないと何も書けない。神様の愛について。

 そのようなときでも、神様の愛と人の愛の共通部分は、少しは書けます。

共通部分は、神様の愛は、人間から見れば親の愛ではありますが、理想的な親の愛です。私も子供がいますが、子供たちは成人の年齢なのに、神様のように子供を愛してきたとは言えない。試行錯誤の愛です。間違った愛し方をしたことも多かった。その間違いに気づいては修正するという愛です。神様の愛に近づける努力の日々です。

また、神様の愛は人間を妻にたとえると夫の愛です。私には妻がいますが、これもまた試行錯誤の愛です。愛し方を間違えては修正する日々です。30年以上たった今もそうです。亡くなった私の親も私を愛してくれました。でも、人間の愛ですから、いつも正しく愛したわけではない。でも、私は父母の愛に満足しています。人間の愛には限界があるし、間違った愛し方もあることを自分自身の経験から学んで来ましたので、私は私の父母の愛に満足できるようになりました。もっと、積極的に言えます。私と父母との間に残ったものは愛だけです。父母が私を愛してくれたこと、それだけが、父母との間の楽しい思い出です。愛してくれた。それ以外のことは忘れてしまいました。

結局、最後に残るのは愛だけです。

ところが、神様は振り返ってみれば、いつも私を正しく愛してくれました。でも、その正しさに気づくのには、時間がかかることが多かった。最長のもので、現時点では50年ですか。神様が自分の望んでいること直ぐ今してくれなくても、それが正しいことであるということは、幸い、長く生きたので知ることができました。

その点、人間の親は早く結果を欲しがって間違った愛し方をすることがあります。

忍耐して信じる気持ちが必要です。神様に近い愛で愛したければ。短気はいけません。

短気を起こしては間違った愛し方をした経験がたくさんあります。

 また、これは言えると思います。自分の心や体にとことん正直になることです。そうすると修正点が見つけやすい。要するに、正直だと現実に起きている事実を認めることが容易になるのです。ただし、地球が太陽の周りをまわっている事実は、自分の力では認めることはできません。宗教改革者ルターでもそうでした。だから、一人の人間の正直には限界があります。回りから教えられて気が付くことも必要なときがあります。

 現実を認めるには正直さが必要です。最近の日本では、政府の統計に不正確さがあったと問題が起きています。データというものは、大量に取り、それも精度が高ければ高いほど統計処理をしたときに真実を語ってくれるものです。たとえば、そうでないと地動説には説得力がなかった。ケプラーの法則も発見されなかった。

楽して急いで取ったデータは、それほど正直に真実を語ってくれません。それどころか、データを少なく取る操作をすれば、偽りを語ることになりやすい。頭の良い人は偽りを言うために不正な統計操作をすることがあります。それには、時間がかかることがあります。それを人員削減と予算の削減の中でやったというのですから、日本の官僚は優秀です。でも、直ぐに身の周りの人からほめられるという結果を欲しがらなければ、嘘をつく労力は何もいりません。

小細工は信用という大切なものを失います。個人的な出世と私欲で小細工をしたのでしょうか。正直者はバカを見ることはありますが、人間として大切なものは得ます。信用です。いくら頭が良くても早く人から認められたい、早く高く評価されたいと思うと不正な統計操作に手を出しやすくなります。人間には、そのような悲しい所があります。

 どうせ、嘘はいつかばれる。天にはいつもばれている。

人から愛されることより天から愛されることを選ぶべきなのです。これができる人は真の勇者です。見かけはみすぼらしくても。イエス様は小さなロバに乗ってエルサレムに入場されました。立派な馬に乗ってこられなかった。真の勇気、真の愛を見ます。

 

休ませるイエスの愛、ヤジロー

 奴隷のような身分に誰でもなりたくない。しかし、母国が戦争に負けますと敵国から奴隷のような扱いを受けることは覚悟しなくてはいけない。裕福な暮らしをしていても大災害で生活基盤を失えば、奴隷のような貧しい生活をするかもしれない。

 借金も恐ろしい。借金で奴隷の気分を味わう人は多い。借金返済のために一生奴隷のように働いている自分に気が付いて嘆く人は多い。古今東西を問わない・・・よくある話です。

 でも、よくよく考えてみたら、ご先祖様のアダムがエデンの園すなわち楽園すなわちから追放されてから、人(アダム)は、額に汗をかいて重労働するように神様から罰を受けたのです。

 それで、人間の心に奴隷の心が存在しているのでしょうか。自由人と奴隷が共存しているような自分自身の体や心。締め切りに追われて過労状態にいる自分を奴隷だと思ったことはありませんか。

 そのようなときに心に響いてきたのが、イエス様の言葉です。マタイによる福音書11章28~30節の言葉です。(ネストレアーラント第28版のギリシャ語原文テキスト)28節は文字通りの順番で読むと詩のようです。

「来なさい、私のもとに、みんな、疲れている人よ、荷を負い続けて。私が休ませる」

とあります。29,30節はこうです。()書きは文字通りの訳。

「私と共に荷を負いなさい(私の軛をかけなさい)。知るよ、私がやさしく謙虚なので魂に休みが来ると。私がやさしく共に荷を負い(私の軛はかけやすく)私の荷は軽いから」