イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

聖書中心主義の限界

 クリスチャンの一部にある「聖書中心主義」には限界があります。

クリスチャンでもプロテスタント系の人たちは聖書中心主義の人が多い。

 聖書中心主義の限界は、聖書を神様よりも上に置くことが不可能なことから来ます。

 神様が一番上なことは永遠に変わりがない。当たり前の現実です。

 祈りもそうです。神様に祈っても、答えてくださる方は神様ですので、人間が期待している答えがいつも返って来る保証は何もない。祈った人間が拒否する答えの場合は、神様は答えてくださらない場合が多い。

それほどまでに、神様に祈る人間の方のレベルが低いのです。

そのレベルの低さを自覚していないと「神様はいない」という言葉を人間は口にしやすい。

 そんな無神論よりも、もっと恐いのは、自分の感情や考えにこだわって祈っていますと、神様の声をまねたサタン(悪魔)の声を祈りのときに聞くことがあります。

これが本当に怖い。無神論の方がまだましの結果になります。ニセ牧師なども含めて、詐欺師にだまされます。実害があります。痛い目にあった経験が複数回あります。

 祈っても、神様からの答えが返ってこない場合は、自分自身の祈りの内容に問題がある場合が多いものです。実際、何十年も神様から「ある願い」がかなえられないことがありました。長きにわたり、祈りましたが。でも、今は、かなえられないで良かった、と思っています。それは、自分自身も含めて家族のためでした。

 そのようなことがあるのが、現実の幸福ですから、人間の思いには限界があります。

どこか、客観的に自分自身を見つめて、周りも、相手も客観的に見つめて祈れるときは答えが神様から返ってくることが多いものです。自分自身の無知や無力を具体的に知っていることは、客観的に自分自身を見つめるレベルを上げます。

 そこで、最初のテーマ「聖書の限界」に戻ります。専門書ではないので、大ざっぱに書きますが、2千年以上前の人間が実際に書いたのが聖書なのです。確かに、神様から霊感を受けた書いたのですが、その霊感は聖書を書いた記者が霊感を神様から受けたものなのです。つまり、霊感を受ける側は人間なのです。神様ではないのです。

 そらに、2千年以上前の人間の言葉で、人間が聖書を記したのです。つまり、人間の言葉の限界やその当時の人間の知識の限界が、聖書の記述に限界をもたらしているのです。それで、比喩的な表現やたとえ話のような記述になりやすい。

 とてもじゃないけれど、現代の自然科学的な記述など不可能な低い記述レベルで、当時の聖書を記述する人たちは書いているのです。

 また、今の自然科学も大いに限界があります。その限界を知るものが世界で最高峰の自然科学者たちです。限界を知るからこそ、研究活動があります。永遠に続くのです。そのくらい、人間には無知の世界が無限にあることを最先端の学者たちは知っています。それで、理系のクリスチャンの方に、謙虚な人が多いように思えます。無知の自覚がないと大言壮語できるものです。聖書の解釈も糸の切れたタコのようになります。

 それで、聖書の限界を知る人こそ、聖書を正しく読めることでしょう。

たとえば、1日という時間です。聖書においては、自然科学で定める1日という時間と一致しない場合もあります。1日24時間というのを自然科学の物差しと見ての話ですが、(厳密には幼稚なたとえですが)聖書記述者たちは、1日を24時間と見て書いていないこともあります。1日24時間という物差しで書いているときもありますが。

 それで、創造の初めのとき、1日24時間で暗闇に光が生じたでしょうか。いまだ、どのくらいの時間を要したかは、人間の誰も答えを出していません。

 そういうわけで、聖書を記述した人間は、自分の使える言葉の範囲で1日と記すしかなかった。つまり、人間の方に限界があるのです。そうです、神様に対して人間は謙虚でなくてはいけません。自分の無知や無力な範囲がいかに無限の広がりを持つかを意識したとき、聖書の限界、人間の記述限界を知ります。

 無限の時間、無限の力という概念は、神様に属するものですから、進化論はその無限の中では一瞬の進化を論じているにしか、過ぎないのです。

我々、人間一人の生活空間は、狭い井戸の中の水にいるカエルようなものです。

それで、無限の広がりや深さを論じるには限界があります。そこに聖書の限界があります。正確には聖書の記述をする人間の実際の限界があります。

限界を知っていない聖書中心主義は他の諸々の教会を見当違いの批判をすることになります。

 

 

 

異端

 宗教で異端という言葉は、幅広く使われる。

 誰でも異端と思うのは、詐欺師が頭にいる宗教、宗派、教団、教会である。

キリスト教で、ややこしいのは、神父や牧師が詐欺師の場合。この場合は、特定の教会を指すので、そこの宗派が異端とはならないからだ。しかし、そこの教会は、実質的に異端なので、そこの教会に行かない方が安全である。また、信者の中に詐欺グループがいる場合も、そこの教会に行かない方が安全である。

 詐欺師の誰もが、狼の顔をしていない。羊の顔をしているからややこしい。

例えば、殺人をした人々の顔は、多くの場合、どこにでもいそうな人の顔をしてはいないだろうか。テレビや雑誌に見る殺人犯の顔で鬼のような顔をしている人を見ることは少ないものだ。そう、偽教師、偽信者は見分けるのは難しい。被害にあえば、見分けることはできてくる。

 経験的には、八方美人タイプは近寄らないがよい。目立つ身なりの人も危険だ。

卑屈とも思える謙虚さを示す人も危険だ。それは、羊の衣を着ている確率が高い。

このように確率論的に述べるしかないのだが、本物と偽物の区別は難しい。

小さな嘘を自然に息をしているかの如くつける人には近寄らないが良い。最も、相手の方から来るだろうが、距離を置くことが必要だ。場合によっては、その人がいる教会に行かないことだ。もしくは、食えない人間になることだ。しかし、異端扱い受けやすいので、いやかも知れないが、詐欺師から悪口や中傷を受ける異端扱いは喜ぶべきことだとイエス様はおっしゃってくださっているので、勇気をもって、孤独になることも必要だ。気を付けないと詐欺師から大損させられたばかりか奴隷にされる。それよりも、異端扱いされて孤独になった方がまだましだ。本当のキリスト教は人を自由にする。

偽物が頭にいる教会では、人を奴隷にして食い物にするので、異端といえる。

 また、最悪なのことは、人は過ちを犯す肉体を持っていることだ。禁じられたことをやりたがるものだ。つまり、善人でも悪を行うことがある。それが、人生の悲しみの原因となっている。性的な過ちも含めて、広範囲な意味で、食べてはいけないものを人は食べてみたくなり、そう実行することが、アダムとイブの時代から肉体を持つ者の宿命となっている。つまり、罪を犯さない人はいない。

 罪を犯すことは避けられないかも知れないが、ウソをついて、人に罪を犯させてはならない。ウソつきの友人は悪魔だ。しかも、この友人は最後には裏切る。それが、悪魔という名の友人のすることだ。目の暗い人には気を付けることだ。目の暗い被害者の場合もあるから、ややこしいが、それでも、同じ被害者とならないために気を付けるべきだろう。

 つまり、人間不信になるのが人生だ。だがそれで、人は人間よりも神様を信じるようになる。人は信じるものではない。神様こそ信じるものだ。しかし、神様の代理人が、人である場合には、本物か偽物かの事実確認はクールに丁寧に行うべきだ。すると、被害にあっても、その被害は小さく、人生のレッスン料を払った程度で済み、致命傷とはならない。

 さてと、キリスト教で異端と言う場合は、三位一体以外の神様を信じている場合を異端と言う。イエス様の十字架による贖いから来る救いは、キリスト教では当然なので、十字架を否定している場合も異端だろうが、キリスト教とは別の宗教として扱うべきだろう。

 また、イスラム教は三位一体を否定している。父と聖霊を一体の神様としている。イエス様は使徒または予言者であり、イスラム教では神様ではない。

ユダヤ教イスラム教と同様に三位一体を否定している。それで、キリスト教とは別の宗教である。同じ一神教ではあるが。

 また、日本では、三位一体の話が話題にならないのは、多神教ではあるが、三位一体のような感覚を持つ日本人が多いせいであろうか。

 とにもかくにも、一神教の中では、日本で受け入れられやすいのは、キリスト教と思います。それと、異端という言葉を一人歩きさせて、差別やいじめなどの目的に使う人間は人でなしだ。人間ではない。それよりも、自分のことを「ろくでなし」とへりくだる人間の方が救われやすい。 

 

 

 

愛と好きの違い

 愛と好きの違いは、キリスト教を通してみないと見えないものです。

日本人が使う「愛」という言葉の使い方が広範囲なものですから。

キリストの愛と好きの違いと言うと明確に違いが見えてきます。

 キリストの愛でよく知られている言葉は「汝の敵を愛せよ」です。

敵を愛する愛ですから、好きとは全く違う愛です。

これは、敵の基本的人権を尊重するときにもよく見られる愛です。また、関係修復のときにも必要な愛です。

この愛がないと家庭平和どころか社会秩序は保たれません。人類の歴史は行きつく先は殺し合いで終わりに向かうことでしょう。

 好きなだけの愛はもろいものです。好きと嫌いとは硬貨の裏表のように一体のものですから、好きなだけで一つになった男と女の愛は「嫌い」と言う裏面が出たときに破局が簡単に近づきます。このとき、敵を愛するキリストの愛を実行すると関係修復が可能となります。平和は敵を愛する愛でつくられることがあります。

 キリストの愛には自己犠牲も含まれます。究極の自己犠牲は、よく知られているようにイエス様の十字架にかかられた姿です。悪いことをしてもいないのに他者のために犠牲となるケースがあると、世の中には平和がつくられる。

 この自己犠牲による慈悲深い「愛」がある所に人が生きていける世界が生まれます。

また、人を赦すという慈悲がないところに持続可能な人間関係はありません。

 これは「好き」なだけの感情では存在しない人間関係です。

全ての人を好きになることは、実行すればわかることですが、不可能であることを思い知らされます。しかし、キリストの愛で全ての人を愛することはできます。

 

 

 

不敬罪な祈り?

  不敬罪を犯している事実の確認は誰がするのだろうか。

犯している本人よりも第3者だ。日本語の使い方が不適切な不敬罪は、国語の辞書を引いただけで簡単に判断できる場合がある。

 すると、日本の教会で、一部ではあるが、日曜日ごとに不敬罪な祈りが発せられている場合があるのではないか、と思う人々がいる事実がある。

信じている神様にこう祈る人々がいると。

『国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり』と主の祈りとは今では学問的には認められていない言葉を最後に追加して祈るという。

この「なんじ」は、自分たちが信じている神様をさす。国語の辞書を引けば、対等もしくは目下の者に使う言葉が「なんじ」である。特に「目下の者」に使われる。この言葉は百年以上の前から使われているらしい。99%がクリスチャンでない日本。これは少なくとも99%の日本人のうち宗教心のある人から見れば宗教的に不敬罪である。

しかし、クリスチャンでない人々は、このことで行動を起こすことはないだろう。

キリスト教会に足を運ばないという行動以外に。このように距離を持たれることを恐れて、「汝」ではなく「あなた」と言い替えている教会もある。

伝統だと声を上げる人がいる。しかし、99%の日本人がどう見ているかと自省をする必要がある。今まで行ってきたことを否定するのには、何よりも真の勇気がいる。

しかし、この勇気こそが天から最も称賛される勇気ではないか。

 このように不敬と外部から思われる祈りをしている教会の多くは人が減っている傾向にあると聞く。

クリスチャンでない99%の日本人から見れば何も不思議はない。神様の目から見ても、そうではないかと心配する。日本語の使い方は少数派が決めない。多数派が決めるのだ。それで、公用される聖書では、この箇所は本文から削除されている。

 つまり、戦後出された聖書は、この部分の「主の祈り」が削除されている。もともと、イエス様が、こう祈りなさい、と言われた「主の祈り」になかった言葉だと学問的にも確認されたからだ。しかし、日曜日の礼拝でいまだに祈る教会がある。これは宗教的には不敬である。「なんじ」という言葉は。それで、「あなた」という言葉に少なくとも置き換えるべきである。最もわかりやすいのは、主の祈りではない部分は削除することだ。頌栄として使うことはできるだろうが、「なんじ」は「あなた」に置き換えて使うべきである。

エス様が祈りなさいと言われた言葉「主の祈り」と頌栄とは区別した方が良い。

また、99%がクリスチャンでない日本では、この頌栄は避ける方が政治的には賢明である。政治的に穏健な人々、保守派の人々の足が運びやすくなるからだ。下克上を好む革命的な左派との誤解を受けることがなくなる。羊の衣を着た狼の教会という誤解を受けることがなくなる。多くの日本人の中身は羊である。羊は狼を本能的に恐れる。

 主の祈りをイエス様の言われた部分だけにして祈り、教会に足を運ぶ人の数が増えるかどうかを見てみよう。神様の恵みがあるかどうか見てみよう。神様が生きておられるなら数が増えると確信する。

 さて、日本の教会の多くで使われている2種類の公用の聖書が新訳で最近出された。

新改訳は2017年、共同訳は2018年、不敬の観点から言えば、新改訳2017を採用すべきである。日曜日の教会の礼拝において。

 理由はシンプル。ヨハネ福音書の最初を読もう。ヨハネ1章29節にあるヨハネの言葉「見よ、余の罪を取り除く神の子羊」である。この子羊は、キリストの別の表現。この表現により、不敬の罪は取り除かれた。

それは、それ以外の主な聖書はこの「神の子羊」を「神の小羊」と表現していたからだ。子羊の子は敬称としても使われる子であるので、日本人から見れば、当然の使い方。ところが小羊と書けば「こひつじ」と読んでも、小さな羊なのか子供の羊なのかわからない。しかも、この小は、人を軽んじたりするときにも使われる。つまり、子羊と書かなければ不敬罪である。大きな羊は美という言葉を作る。

 旧約聖書でもしかり。ヘブライ語の音訳においては神聖4文字を誤って公の場で声に出さないようにと新改訳2017では「アドナイ」と音訳している。諱(いみな)は不敬とならないように別の言葉に置き換えるもので、その置き換えられた言葉は「アドナイ」、直接の意味は「主」。主の祈りの主である。

 これらのことは、新改訳2017が教会で声を出して読まれることを意識されたものだということを証明している。

 また、新改訳2017は、比較的、聖書の原語に忠実に訳してあるだけではなく、聞いてわかりやすい表現を用いている。聞いてわかりやすいことが、教会の礼拝で求められているからだ。教会に来るのは教会だけで通じる言葉を理解する人だけではなく、教会外の人々、また、子供たちも来るのだ。それに、日本語の使われ方も何十年もたてば微妙に変化するのは、英語などの国際語でもそうだが、避けられない。そこへの配慮が、新改訳2017でも当然のこととして存在する。当然のことを行うことが、最も尊く大変なことであることは歴史が証明している。それは、 当然のことが行われること、それが神様が求められている正義であるからだ。

 その正義が聖書「新改訳2017」にはある。

 また、キリスト教は万人のためにある。政治的に右であろうが左であろうが無関心であろうが関係はない。特定の人のためにない。その御心が地においてもなるように頌栄には、配慮が、日本では特にいる。多くの人が教会に来れるようにする配慮である。

 日本で、新改訳2017が多くの教会で用いられることを父と子と聖霊のみ名により祈ります。

最後のアダム

 最後のアダムという言葉は、聖パウロが書いた第1コリント15章45節にある言葉です。こうあります。

「(聖書に)『最初のアダムは命を授けられた』と書いてあるでしょう。最後のアダムは命を授ける霊となったのです。」

 最初のアダムは誰もが知っている通り、天地創造のときに神様が造られた最初の人アダムです。それで、アダムは人の名前にも使われますが、その意味は多様です。

「人、人間、人類、ある人、だれか、男、人類の始祖、神様がつくった最初の人、最初の神の子」などです。少し、主題からずれますが、日本人には興味深いことなので、書いてみます。アダムと同じ語源の言葉に土(アダマ)、赤い(アドム)という言葉があります。埴輪(はにわ)を連想しませんか。アダムはアダマのチリ(最小粒子)から神様は形つくられ、その鼻に命の息を吹き込まれてアダムは生きた人間となったと書かれているからです。旧約聖書の最初にある創世記にある記述ですが、創世記はユダヤ教イスラム教でも聖典です。しかも、その起源は文字になる前の言い伝えによるらしくてアジアにある日本も言い伝えの影響があるのでしょう。日本も聖書の世界の文化や伝統の中に古代からいると思います。神社の中には、偶像や仏像に相当するものは何にもない。神様が降臨される場所ですから人が造った像を置く必要がない。その降臨される神様と会える人は神主です。聖書では神殿の祭司。神殿も神社と同様に仏像などない。

神様が降臨されて祭司と会見されるからです。

 さて、本題に戻ります。アダムには「最初の神の子」という意味もあるのです。

創世記を読めば、神様が最初に造った人だから、確かに「最初の神の子」です。

キリスト教では「神の子」といえば「イエス・キリスト」です。

でも、それは、我々、一人一人の人間を救う神の子という意味の「神の子」なのです。

ここで、一人にこだわるのは、最初の神の子、一人の人によって人類に死がもたらされたからです。食べれば死ぬという禁断の実を取って食べたからです。神様の戒めを破るという罪の結果が死なのです。それで、キリスト教では、死の罰から人を救うには、一人の人の罪によるのだから、一人の人の犠牲(くだけた表現をすれば、禁断の実を食べた罰から救われるには、すなわち、損害賠償をして罪なしとして死から救われるには、一人の人の罪なのだから、一人の人が同等の損害賠償の負担をすれば良い。死には死による損害賠償です。十字架による贖(あがな)いの犠牲と言います。)

これが、イエス・キリストの十字架の死の価値(救いの御業)です。イエスの愛の最高レベルの象徴が十字架です。

 それで、イエス・キリストが無実なのに十字架という最も惨めな死罪となったのは、最後の神の子すなわち最後のアダムとして、人を死から救うためだったのです。

 聖パウロは第1コリント15章44~57にはこのように書いています。()書きは私のつたない補助説明です。

「(やがては朽ちて死すべき)肉体の種としてまかれた体が、霊の体としてよみがえるのです。肉体があるなら霊体もあるのです。

『最初のアダムは命を授けられた』と(聖書には)書かれてあるでしょう。最後のアダム(神の子イエス)は、命を授ける霊となったのです。

霊が最初に存在したのではありません。肉体、その命が先で、次に霊です。

地の土から最初の人(アダム)がいて、天からの人(アダム)がいるのです。地上の人は土の人たちのようであり、天上の人は天上の人たちのようなのです。

我らは地上では土の人のようなのですが、天上では天上の人のようになるのです。

それで、こう言うのです。兄弟(はらから)よ、血肉は神の国を相続できません。

朽ちて滅びるものは、朽ちないものを相続できません。

注目してください。神秘(救いの奥義)をあなたたちに語りましょう。

永眠しないのです。みんなは変えられるのです。一瞬のことです。

最後のラッパのとき、ラッパが吹かれると死者たちは眠りから覚めて起き上がるのです。不死の者たちに我らは一変させられるのです。

この朽ちるべきものが、朽ちないものを着るようになるのですから、この死すべきものに死なないもの(不死)を着せるのです。

それでいつかは、この朽ちて行く体が、朽ちないものとなるとき、この死すべき体は死なない(不死の)体となるのです。そのとき(聖書に)書かれた言葉が成就するのです。

『死は勝利に飲み込まれた。死よ、どこにある、汝の勝利、死よ、どこにある、汝のとげ(毒針)』

それで、死のとげとは罪のこと、罪の力とは戒め。それで、神様に感謝!勝利の恵みを我らに与えられている。我らの主イエス・キリストにより。」

 

 

 

 

滝廉太郎と讃美歌

 天才作曲家であった滝廉太郎は、クリスチャンであり、今度、新5千円札の顔になる津田梅子は、キリスト教会で、滝廉太郎の弾くオルガンで讃美歌を歌っていたと思われます。

 荒城の月は欧州の一部では讃美歌の曲として使われています。それで、滝廉太郎の花という曲を見ました。すると、花の歌詞を見ながら5分から10分で讃美歌の作詞ができました。替え歌ですが、やはり、滝廉太郎はクリスチャンであったと思いました。

 たとえば、こんな風に作詞できます。

 題は、花のエルサレムとしましょうか。

「春のうららのエルサレム 上り下りの旅人が あがむる神殿 かがやきて

ながめを何にたとうべき 見ずや あけぼの 露あびて われに物言う

アーモンド(桜の仲間で春に白いアーモンドの花をイスラエルで咲かせます)

見ずや 夕ぐれ 手を伸べて われ 差し招くオリーブを

錦(にしき)織りなす長城(ちょうじょう)に 暮るればのぼるおぼろ月

げに一刻も千金のながめを何にたとうべき」

旧約聖書エレミヤ書1章11節にありますが、主なる神様は予言者エレミヤに言われます。「何を見ている」。エレミヤは言いました。「アーモンドの木の枝を見ています」

イスラエルで最も偉大な予言者はモーセですが、その兄アロンの杖はアーモンドの枝です。つまり、日本人から見ればその杖は桜の枝です。それは、契約の箱に納められました。御神輿で担がれる最も神聖な箱に納められるものです。日本人には三種の神器を連想させます。

そこで、「われに物言う桜木を」という歌詞から「われに物言うアーモンド」という歌詞が連想されるのです。アーモンドのヘブライ語の動詞形は「目覚める」という意味ですので、アーモンドには「目覚めの木」という意味があります。春に先駆けて咲く花、アーモンドの花は日本人から見れば桜の花です。

エス様の復活を祝うイースターも春祭りの一つです。目覚めは復活を連想させる言葉です。つまり、 滝廉太郎の花は復活の喜びを歌う讃美歌の曲となると思います。

 それから、青柳をオリーブに変更したのは、キリストのイメージからです。

キリストは「油注ぎ」から来た言葉ですが、その油はオリーブの実から作られたオリーブオイルです。つまり、聖職に任命する人を差し招いてその頭にオリーブオイルを注ぐイメージがキリストと言う言葉の持つイメージです。キリストは油を注ぐという動詞をギリシア語化した名詞です。その油を注ぐ任命の最高の儀式のイメージ、つまり、大祭司への任命式から来た言葉が、キリストですので、青柳をオリーブと変更しました。

 このように言葉に書けば長くて堅苦しいのですが、実際は、理屈抜きに直ぐにわくイメージなのです。クリスチャンであれば。そこが、滝廉太郎の「花」という曲の持つ魅力です。これはまた復活の喜びを歌う曲にもなります。作詞をしてみられることをお勧めします。滝廉太郎の荒城の月は最後の晩餐のイメージです。また、ハレルヤという言葉が、直ぐに浮かんでくる曲です。これには厳かな神聖さがあります。

最後の晩餐は春祭りの出来事です。

 さて、日本語による讃美歌の作詞が本当にイメージしやすい曲。それが、滝廉太郎の曲です。

 

みじめさからの救い

 惨(みじ)めな経験は誰でもするものだけど、ある日、突然、死ぬときがやって来る。そして、惨めなままに死ぬことがある。

 大災害や戦争もそうだけど、交通事故に巻き込まれて一瞬のうちに予想もせずに死ぬこともある。しかも、年齢も赤ちゃんから高齢者まで様々だ。

パウロの書いた手紙の一つに中の第1コリント15章を読んでいると、人は惨めなままに死ぬことがあっても良いのだ、と思う。いや思うというよりは信じる、と言う方が正確だ。

今生きているときを現世というなら、死んだ後は来世だ。来世に生きることをクリスチャンは復活するという。

 キリスト教を知らない人の批判はイエス・キリストの十字架に集中する。あれほど、惨めな死はない、と。とても、あのような惨めな死をした人を神様、救い主(キリスト)と信じれるものかと。

 でも、復活があると信じることができれば、そんな批判は吹き飛ぶ。十字架にかけた連中のほうが恐れおののくべきだから。実際、イエス様を十字架にかけるための主犯格はユダヤの上層階級の宮様派(サドカイ派)だ。サドカイ派は来世の復活を信じない。エルサレムのお宮(神殿)の祭司階級の上層階級を中心としている。

人は上に行けば行くほど、下に行けば行くほど、無法者になりやすいとか言う人がいたけれど、そのような両者がイエス様を十字架に付けた。

彼らは現世第1主義者で来世を考えることはない。それよりは、今、飲み食いして楽しむことを優先する。そのような人から見れば、信仰のあるクリスチャンは惨めな者たちの集まりにしか過ぎないだろう。

 つまり、惨めさからの救いは、イエス様の復活を信じるかどうかだけなのだ。

クリスチャンの信仰は実に単純なのだ。イエス様が十字架にかけられた後に復活されたことを信じるものがクリスチャンなのだ。教会に籍があるクリスチャンと言う意味ではないよ。復活を信じない教会のメンバーもいるという事実は今も昔も変わらない。

 聖パウロの手紙は、本質的に、今も昔もクリスチャンには復活を信じる者のいれば信じない者もいるという事実を述べている。第1コリント15章にあるように。

 ただし、今もこれからも幸せに生きたいと願うなら、イエス様の復活を信じることだ。後は、イエス様に任せての復活だから。このことは、人間の頭で考えてもわかるものではないよ。狂人になって哲学を述べた所で、見かけの理論は現実を鋭く分析しているように見せても、行き着く先は、そう、生きているときは天才扱いされても、百年もたてば、惨めな狂人扱いだ。生きているときは巨人扱いを受けても。

しかし、人の評価は時代の空気を反映する。その時代が狂っていれば、狂人が評価される。百年たたなければ、正確な評価というのは難しいと言われている。

ヒトラーを見よ。しかし、今だけを考えていると狂人を天才だと勘違いするだろう。

 イエス様の十字架を仰ぎ見れば、本当の天才と狂人の違いが見えて来る。

今の今、評価されたいと思っていたら、狂人のお芝居を天才の言動と勘違いする。

芸人で覚せい剤とか麻薬を使う人がいる。それは、芸は天才同様に上手にできるだろうけど、副作用という支払いが待っている。狂人になる支払いだ。

 それに、とにかく、本物と偽物の見分けは「時代の空気という物差し」のために見間違えやすい。イエス様を十字架に付けた後にユダヤ人の国は速やかに消滅していく。

当時のユダヤ人の現人神思想、現世でのご利益第一主義の行きつく先は亡国であった。極地の惨めさの方が真理であった。真実だった。これは、人の実力などたかが知れているということだ。

エス様の十字架を思い、復活を信じる方が、今は惨めでも、救いがある。

生きているときが全て惨めであっても救いがある。ラザロのように生きても復活があるかぎり惨めさからの救いがある。

 イエス様の十字架を仰ぎ見て、死後の復活を信じる。これができるようになると、不平や不満が消えて行く。感謝できないことばかりでも平安があり生きていける。