イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

メシア

 

キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫)

キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫)

 

 

  メシアとキリストの意味の違いは元々はありません。

メシアはヘブライ語からの音訳です。キリストはギリシャ語から音訳です。

文字通りの意味は「油を注がれた方」です。

古代ユダヤでは王や祭司(お坊さん)の聖職に任命するときに儀式が当然のことですがあります。

その儀式は聖職に召される方の頭に油(儀式用に特別に清められたオリーブオイル)を注ぎました。食用やランプ用ではない聖別されたオリーブの油です。

それで「油注がれた方」なのですが、その言葉が、外敵から民を救う王としての呼び名ともなり、救世主、救い主の意味でメシアやキリストという言葉が使われるようになりました。イエス・キリストの時代がそうでした。キリスト(メシア)の代表的なイメージは、ユダヤ人の歴史上最高の王様ダビデでした。イエス・キリストよりも千年も前に存在した人です。それで、イエス・キリストは民衆から「ダビデの子」と呼ばれ、イエス・キリストの弟子たちもイエス・キリストダビデの再来と信じていました。

 ところが、キリストという言葉は今ではダビデ王ではなく、イエス・キリストを意味しますように、大きくイメージが変わりました。

 メシアというヘブライ語の意味には、ヘブライ語ユダヤ人の言葉であるせいか、イエス・キリストのイメージは日本語ではありません。

 これは旧約聖書の底本がヘブライ語で書かれてあるのに新約聖書の底本がギリシャ語で書かれてあるのと同じくらいの違いでしょうか。

 さて、イエスという男子名はユダヤ人の中ではよく見られる名でした。予言者モーセの後継者イェホシュア(ヨシュア)の短縮形イェシュアをギリシャ語に音訳した言葉がイエスです。主格男性語尾のス(ς)を付けますとイエススとかイエズスとかに音訳できますが、イエスの意味は「主(ヤハウェ)は救い」という意味です。

 ヤハウェはエホバとも音訳されていますが、実際に発音するときはアドナイと発音します。アドナイとは主と日本語に訳されています。英語ではLordです。

それは、聖書を人前で朗読するときヤハウェは諱(いみな)ですので、つまり、貴い方の名前を声を出して読むことは禁じられていますので、アドナイつまり主と声を出して読みます。それで、日本語や英語の聖書はヤハウェ(エホバ)と表記せず主(Lord)と表記しています。

 さて、イエス・キリストダビデ王の再来、救世主としてユダヤの民衆から期待されたものですから、時の権力側から恐れ睨まれ、暗黒の裁判で「ユダヤ人の王として」死刑判決を受けます。

 イエス・キリストが捕まる直前、弟子のペテロは剣を抜いて相手を切りつけますが、

そのとき、イエス・キリストはこう言われました。

「剣を鞘(さや)におさめなさい。剣を取る者は、みんな、剣で死ぬのです。」

 このとき、イエス・キリストは敵も味方も愛されていました。

 また、その前にイエス・キリストはこうも言われました。

「言った通りだ。私だ。私が狙(ねら)いなら、この者たちを去らせてくれ。」

 これらがイエスの愛です。友情や人情を超えた愛です。ギリシャ語ではアガペーまたはアガピと呼ばれる愛です。

 ペテロはイエスを救おうと剣を取ります。これは人の愛です。男の愛です。しかし、イエス・キリストの愛は神様の愛です。人と神様の愛の違いは、生死の境に来たときに現れます。美しい犠牲の心は神様の愛です。イエスの愛です。

 それで、人の愛により人を救う方はメシアと呼ばれ、神様の愛により人を救う方はキリストと呼ばれるようになりました。

 

 

 

 

 

余はいかにしてキリスト信徒となりしか (岩波文庫)

余はいかにしてキリスト信徒となりしか (岩波文庫)