イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

出自

 

夢判断 上下  (改訂版フロイド選集11/12)

夢判断 上下  (改訂版フロイド選集11/12)

 

 

  マタイによる福音書を読み始めます。

すると、個人の力ではどうしようもない出自について、いきなり、考えさせられます。

出自が個人個人それぞれの生まれながら背負っている十字架だと言う人がいました。

すると、何らかの差別に人は生まれながらにして苦しむのか、と考えさせられます。

何もないような出自が、背負う十字架が最も軽いかも知れません。

 また、イエスの愛は十字架に関する愛に象徴されることが多くて、

「人の一生は十字架を背負いながら坂道を上るようなもの。だから、それを知っておられるイエスの愛がなければ、人は上りきることができない。」

 そのように、ある人が説教していると途中で叫ぶ人がいました。

「十字架を放り投げたよ。上りきれなくてもいい。」

そばで、聞いていた人が彼に「ろくでなし」とつぶやきました。しかし、ろくでなしは言い返しました。

「人でなし!お前に言われたくない。人に自分の十字架を背負わせて坂道を上っているくせに。お前より俺はまだましだ。奴隷なしに上れないお前よりは。」

 私は「ろくでなし」になれなかった。「人でなし」になるにはバカ正直だった。

しかし、自力では坂道を上れなかった。

そのとき、私はわたしの十字架を共に背負ってくれる方を見つけた。イエス様だった。

クリスチャンは他力本願なのです。自力という見栄を捨てれば道はあるものです。

 さて、マタイによる福音書第1章に出てくるイエス様のご先祖の女性には寡婦(やもめ)、遊女、外国人がいます。

 先ず、寡婦のタマルです。

詳しくは旧約聖書の創世記38章にありますが、義父のユダと交わって双子の息子を産みます。タマルは遊女に変装して顔をベールで覆いユダと関係を持ったので、タマルは悪女でしょう。しかし、ユダにもタマルに夫を与えることができたのに夫を与えなかったという当時の掟を守らなかった責任が出来事のはじめにあります。福祉制度のなかった当時としては殺されることを覚悟でのタマルの行いでした。老後の生活保障のために息子を持つことは当時の女性の人生にとっては大事なことでした。

 本物の遊女はラハブです。

詳しくは旧約聖書ヨシュア記2章にあります。このヨシュアは、イエス様の語源のヨシュアですが、予言者モーセの後継者ヨシュアです。ラハブは異邦人ですが、見通しのきく女性で、このヨシュアの放ったスパイを勇気と機転でかくまい助けます。エリコ城陥落のときにイスラエル軍から保護され、イスラエルの民(ユダヤ人のご先祖の民族)に彼女の一族とともに加えられます。

 次は旧約聖書ルツ記の主人公ルツです。ルツも異邦人ですが、イスラエルの民の夫と結婚します。しかし、その夫を失います。それでも、姑に仕えて、姑の親戚、つまり、ラハブの子孫と結婚します。その行いは真っ直ぐで大胆ですが人を見る目があります。

 そして、バト・シェバです。異邦人の妻でしたが、ダビデ王と非常な美人にありがちな不倫をして夫を死に追いやります。その後、ダビデの妻となり、オリエントではよくあるお家騒動で活躍して我が子ソロモンをダビデ王の後継者とします。

詳しくは、旧約聖書のサムエル記下11~12章、列王記上1~2章にあります。

 そして、イエスの母マリアはヨセフとの婚約期間中にイエス様を身ごもります。

これは婚約期間中に性的な関係を持ってはならないというユダヤ人の掟破りでした。

それで、マリアの婚約者ヨセフは正しい人であったので、そのことを公にしたくありません。公にすれば、マリアは身ごもったままに公開処刑(石打ちの刑、リンチ)です。当時は格差社会の進行がひどく社会的な不満から、保守過激派がユダヤ政治の主流となり、人の気持ちはネジ曲がり、テロが横行するなど、今の日本では考えられないような行き過ぎた掟がリンチの形となり実行されていました。

 それで、内密に婚約破棄をすることをヨセフは考えます。しかし、このように思案にくれていますヨセフに天使が夢に現れました。

夢によるお告げは古代では大切にされていました。理論的な裏付けとしての参考には、精神分析創始者フロイトの「夢判断」を読まれるといいかもしれません。人間の本音は夢の中に変形やカットはあっても示されているものですから、ちゃんと分析ができれば、納得の行く判断ができてきます。何らかの嘘や思い込みで悩んでいても。

 さすがにヨセフはご先祖様たちの血を引いていますので夢でのお告げを素直に受け取りました。そのヨセフへのお告げの言葉はこのようでした。

「ヨセフ、ダビデの子よ、恐れるな、マリアを妻に迎えることを。聖なる霊によるおめでたなのです。男の子を生みます。お名前をイエスと名付けなさい。その方が、ご自分の民をお救いになりますから」

 それで、ヨセフは眠りから覚めると天使が命じたとおりに行いました。

マリアを妻として迎えたのです。

 つまり、ヨセフはこう判断したのです。聖霊により身ごもったのだからマリアは処女としてヨセフと結婚した。つまり、マリアは性的な罪を犯していない、と。

人間にはできなくても神様(聖霊)にはできること。それは、人を罪なしとすることです。

 マタイによる福音書は、このことを次のようにも語っています。

「見なさい 処女(おとめ)が身ごもる そして 男の子を生む 

その名は インマヌエルと呼ばれる」

 インマヌエルは訳しますと「我らと共に神様あり」です。

つまり、神様はいつもそばに居てくれる存在なのです。イエス様は一人一人の個人の心のそばにいてくれる存在ということです。お祈りの中で大切なのは神様との交流を心で行うことなのです。個人的な関係を目には見えない神様と持つことが大切です。

 イエス様のご先祖について旧約聖書は語っています。その一つが、人はエロスという愛により罪に走りやすい。それで、神様の愛、イエスの愛がなければ、人は聖なる存在になれない、と新約聖書は語ります。