イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

イエスの愛ー独裁者

 

ユダヤ戦記〈2〉 (ちくま学芸文庫)

ユダヤ戦記〈2〉 (ちくま学芸文庫)

 

 

  イエス・キリストの時代は独裁者の時代が終わる頃に始まる。

その独裁者の名はヘロデ、ユダヤの国の王様でヘロデ王朝の創始者。息子たちと区別してヘロデ大王とも呼ばれている。紀元前73年頃に生まれ紀元前4年に死亡。

 東の地中海世界で独裁者たちが活躍する時代の人で、権力が不安定な時代に生まれやすいのが独裁者であり、その時代の流れに乗り、ヘロデはユダヤの独裁者となった。

 ヘロデに大きな影響を与えたのはユリウス・カエサルジュリアス・シーザー)かも知れない。カエサルは紀元前49年にルビコン川を渡り、ローマの独裁者の道を歩み始める。そして、カエサルのエジプト遠征のとき、積極的にカエサルに近づきカエサルのために、また自分の一族のために戦ったのが、ヘロデの父であった。ヘロデの父は武将でありユダヤの国を操る陰の実力者であった。知勇に飛び抜けて優れた人物で、次男のヘロデもそうであった。ただ、人情の面ではヘロデは父や長男に劣り、また、過激になりやすかった。父や兄がユダヤ人の奸計のために殺されなければ、ヘロデはガリラヤの代官(総督)のような立場で終わり、ユダヤの歴史上最も嫌われ憎まれる王とはならなかっただろう。ヘロデの激情を止めれるのはその父や兄の愛情であったからだ。

 しかし、ローマの最大のライバルであるパルティア王国(今のイラン、イラク)への遠征を準備していたカエサルが紀元前44年に暗殺されると紀元前43年ヘロデの父は宴席でユダヤマリコスから毒殺された。マリコスを命の危機から救ったことのある恩人はヘロデの父である。その恩をヘロデの父は仇で返されたのである。父の復讐をヘロデは行う。

 そして、紀元前40年、エジプトの女王クレオパトラとのエロスに溺れていたローマの実力者アントニウスの油断もあり、ローマのライバル、パルティアは軍隊をユダヤの心臓部エルサレムに送り込むことに成功した。反ローマ、親パルティア派のユダヤ人の奸計による。そして、ヘロデの兄は殺される。一方、ヘロデは危機対応能力に優れ、個人としての天才的戦闘能力や武将としての判断力もありエルサレムを脱出する。ヘロデは狩猟を得意とし、やり投げや弓の名人でもあった。

 ヘロデは先ず隣国のエジプトに逃げる。そこで、クレオパトラから遠征軍の司令官にならないかと勧められるも断る。ヘロデにはクレオパトラより若い美貌の妻マリア(マリアムネ、ユダヤヒルカノス王の孫)がいて、そのエロスに夢中であったせいか、そのような高貴で美しい女性の持つわがままに悩まされていたせいか、妻の助言のせいかはわからないが、クレオパトラから利用されることを避けた。

 エロスという名の愛は、花の命のように短い。イエスの愛といえる慈悲や犠牲が持つような永遠性がない。エロスそのものは男女の交わりのために必要な愛ではあるが、その乱用は不倫や淫行となり、最も制御が難しい愛となりやすい。悲劇を生みやすい。

 さて、エジプトに留まらず、ローマに行ったヘロデは、ローマからローマの属国の王、ユダヤの王として任命される。そして、ローマ軍の力を借りて、パルティア軍を追い出し、パルティア派のユダヤ人を殺してユダヤの国を治め始めたのが紀元前37年である。その王としての業績は、ユダヤの歴史上、港湾、道路、水道事業、大型建築などトップクラスのものが多い。ソロモン王よりも壮麗で大きな神殿に神殿を改修したことなど。しかし、エドム人の血が流れるヘロデは、伝統にこだわりエドム人などの異邦人を差別するユダヤ人への疑いはひどくもので、親族や友人も含めて自分に反対するものをヘロデは殺していく。伝統にこだわりすぎて人を差別することは恐ろしい。

 そして、美貌の妻マリアを不倫などの疑いがあるとの中傷でヘロデは処刑する。さらに二人の間にできた息子二人を紀元前7年に殺害する。

 この紀元前7年という年は、イエス・キリストが生まれた年であるとヨハネス・ケプラーは言う。このケプラーケプラーの法則で有名な天文物理学者のケプラーである。ユダヤの伝統的な解釈では殺害された二人の息子がユダヤ人の王の後継者であるはずだった。また、当時のユダヤにも生まれ変わりという宗教的思想があった。

 それで、パルティア王国がある東方から来た博士(賢者)たちの星占いが、ヘロデに強烈なパンチを与える。ケプラーもまた宮廷での星占いを仕事にしていた。

ユダヤ人の王としてお生まれになった方は何処におられます。私たちはその方の星を

日出(ひい)ずる方で見たので、拝みに参りました」と。

 そして、紀元前4年にヘロデは大腸がんなどにより苦しみながら亡くなったユダヤ人の歴史家は述べる。