イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

イエス・キリストの愛ー八つの祝福

 

ギリシャ語新約聖書

ギリシャ語新約聖書

 

   イエス・キリストが山の上でされた説教で最も心に残るのは八福という八つの祝福かも知れません。少なくとも私にはそうでした。初めて読んだ中学生の時からです。

でもこれは、流れ的には最初の祝福の言葉を順序よく並べて語られた言葉でしょう。

複雑に一つにまとめないで簡潔な短文を並べて深みのある表現をするのは聖書によくある形の一つです。また、詩的な表現です。実際、スピーカーやマイクのない時代です。大勢の人に聞こえるように、詠(うた)うようにイエス様は語られたように思います。

 この言葉を代表的な日本語聖書の新共同訳で見てみます。ギリシャ新約聖書を底本として、学校の先生が生徒のために訳したような訳です。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

 義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」

  ギリシャ語の底本の表現はもっと詩的です。また、ヘブライ語新約聖書もそうです。ヘブライ語はイエス様の時代も聖書の宗教用語として権威のあるものでパレスチナにあるユダヤ地方あたりでも話されていた言葉です。広く話されていたのはアラム語です。それで、イエス様は大衆説教のときにはアラム語で話されていたと思われていますが、アラム語を標準語とするとヘブライ語ユダヤ人の話す方言のような兄弟言語ですから今の日本人にとっては特に問題とはならないでしょう。

 それで、ヘブライ語新約聖書も参考にしながらギリシャ語の底本(ネストレ・アーラント28版)を見つめながら訳してみますとこのようにも訳せます。

「祝いめでたの 魂(たましい)貧しき人よ 天の御国(みくに)があるよ

 祝いめでたの 嘆きの人よ 慰め励まされ元気になるよ

 祝いめでたの 何も持たぬ柔和な人よ 土地を相続するよ

 祝いめでたの 正義に飢え渇く人よ 満足するよ

 祝いめでたの 慈悲深き人よ 慈悲があるよ

 祝いめでたの 心清き人よ 神様を見るよ

 祝いめでたの 平和をつくる人よ 神の子と呼ばれるよ

 祝いめでたの 正義のために迫害される人よ 天の御国があるよ」

 「祝いめでたの」という言葉はイエス様の言葉の初めに出てくる言葉で、ヘブライ語では「アシュレー」と言いまして「幸いだ!」というように感動詞的に訳されます。

ギリシャ語も最初に来ます。このアシュレーと言う言葉は旧約聖書の賛美歌集(詩篇)の一番最初に出て来る言葉です。聖書は朗読するものなのです。

 イエス様が大衆を魅了したのもこういう所にあったのではないかと思います。

そのような新しい訳が出てくることを期待しています。

 また、イエス様の言葉は逆説的なことが多いのですが、物事の真理や真実を正確に見るには、この逆説的な言い方のほうが、簡潔に幅広く深く理解できます。

要するに短い言葉の中に長い長い言葉があるのです。ここが、イエス様のすごいところで、根底には神様の愛があります。

 例えば、私たちの中にはお金持ちや貧しい人がいます。でも、私たち全てに太陽の恵みを与えてくださっているのは神様です。神様は天地の造り主だからです。つまり、私たちは神様からの恵みを受けて生きているのです。また、お恵みなしには生きていけない。

神様から見れば私たち人間は乞食のようなものもらいです。本質的に自分の力で生きていません。神様からの恵みにより生きています。実は貧しい存在なのです。その貧しさに気がつけば天国が身近にあると気がつきます。それで、ルカによる福音書はさらりと貧しい人は幸いと述べています。泣いている人は笑うようになると。