イエス・キリストの愛ーアガペー
聖書の原語の一つギリシャ語で、愛は3つに大きく分けられるらしい。
一つ目は誰もが知っている「男女間の愛」エロス、次も身近に見られる「友や同胞などに関する愛」フィリア、最後が「イエス・キリストのような愛」アガペー。
そのアガペーについて、新約聖書の第1コリント12章の終わりから13章にかけてパウロはこのように書いている。これは、古代から多様な民族が交流する地中海世界という多言語社会の中でのパウロの言葉であることに注意をして読みます。
「みんなに人を癒やす力(カリスマ)はないでしょう?みんなに異国の言葉などを話す舌はないでしょう?みんなに通訳や解釈などの力はないでしょう?
それで、あの偉大な力(カリスマ)を熱く求めなさい。最高の道(アガペー)を紹介します。
異国の言葉などを話せても、それが天使の舌であっても、私に愛(アガペー)がなければ私は鳴るだけの鐘になるか叫ぶだけのシンバルになる。
また、予言ができても、あらゆる秘密を見抜けても、あらゆる知識を知ろうとも、山を移すほどのあらゆる信仰があろうとも、私に愛がなければ私はいないに等しい。
私が全財産を分け与えても、わが身を全焼の犠牲に捧げても、私に愛がなければ、私は何の役にも立たない。
その愛は、辛抱(しんぼう)、親切。
妬まない、自慢しない、高ぶらない、人を辱めない、怒らせない、私利私欲に走らない、あら捜しをしない、不正を喜ばない、
真(まこと)を喜ぶ。あらゆることに耐え、信じ、望み、忍ぶ。
その愛は倒れない、終わりがない。
だが、予言には終わりがある。舌にも終わりがある。知識にも終わりがある。
それは、私たちが部分的にしか知らないから。部分的にしか予言しないから。
完全なものが来れば部分的なものは終わる。
そう、子供だったときは子供のように話した。子供のように思った。子供のように考えた。そして、大人になると子供でなくなった。
だが今は今で、ぼんやりと映る鏡で私たちは見ている。(注:当時の鏡は現代の鏡のようにはっきりと映りません。また、このときのパウロはメガネを必要としてらしいのです。おそらく、遠視用。)
だが、顔と顔を合わせるときが来る。今、私は部分的にしか知らない。だが、そのときになれば、私ははっきりと知る。そう、私がはっきりと知られるように。
それで、今の今もいてくれるのは、信仰と希望と愛の三つ。中でも偉大なのは愛。」
その愛(アガペー)の中でも最も偉大なのが、イエス・キリストの十字架の愛です。
アガペーという愛は慈悲や慈愛とも訳せますが、その愛というイエス・キリストの犠牲による恵みがなければ、人は人生を全うできないでしょう。人は各々の力に応じて十字架を背負って人生という道を歩いているのですから。