イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

イエスの愛ー試される

   今は衆議院の解散があって選挙期間中だ。期日前の投票ができる。

選挙で投票する人も投票される人も試される。権力が大きければ大きいほど人は悪魔から試されるものだ。特に時代が移り変わろうとする時は。そのようなことを勝海舟の氷川清話を久しぶりに読みながら思った。今はどのようなとき、時代なのだろうか。

 さて、イエス様も悪魔から試されたときがある。

穢(けがれ)から清められる洗礼(バプテスマ、みそぎ)をヨハネから受けて、天から神の子としての最高の祝福を受けてから直ぐのことだ。この最高の祝福とは聖霊を受けることなのだが、このようなときには、悪魔から試される。誘惑されるともいうが。

 そして、マタイの福音書の4章の初めにある。

 イエス様は悪魔から試されるために聖霊(御霊:みたま)により砂漠に導かれた。

(この砂漠は荒野とも訳されるように赤茶けた土や岩ばかりで水と緑が非常に少ない地域だ。まぁ、動植物を養う力がとても弱い土地だ。

そこで、イエス様は40昼夜に渡り断食修行をされる。この40という数字は、どちらかというと聖書ではあるまとまった期間を言う。私のように弱い人間だと40時間が、40昼夜に相当する期間に相当する。そのような感覚で40という数字で読まないと超人物語のように思えて・・・つまり、自分に置き換えて普通の人間は読めなくなる。

 とにもかくにも、イエス様は断食の長い期間を経て飢えられた。そのようなタイミングで試す者がイエス様に近寄って来た。悪魔とかサタンと呼ばれる者だ。彼は人に合わせて身なりや口調も変えるので・・・美人に弱ければ美人の姿でとか・・・初見では試す者に見えないかもしれない。)

「その飢えたイエス様に試す者が近寄って言う。

「神の子なら言ってみろよ。ここらの石ころはパンになれ」と。

(砂漠にある石は、焼いたパンのように赤茶けている。パンに見えないこともない。)

 しかし、イエス様は答えて言われる。

「(聖書に)書いてある。

『パンのみにあらず。人が生きていくのは、神様の口から出るあらゆる言葉による』と。」

(パンを得るために若いときから老いるまで働いてきた私には痛いほど響く言葉です。

神様は天地万物の創造主でもあるから・・・つまり、その創造の初めには言葉があるのです。その創造の一つにパンがあるのですから、悪魔も反論の仕様がない。)

 それから、悪魔はイエス様を聖都(エルサレム)に連れて行きます。そして、お宮(エルサレム神殿)の頂きに立たせました。真下には石畳が広がっています。そして、イエスに言います。

「あなたが神の子なら、飛び降りてみろ。(聖書に)書いてあるから。

『あなたのために天使らに命じられる。手で拾い上げよ、足が石に当たらぬように』と。」

悪魔にイエスは言われました。

「こうも書いてある。

『試すな、あなたの神、主を。』と。」

(このイエス様の言葉から、思いました。高慢な飛び降り自殺はやってはいけない、と。)

 また、イエス様を悪魔は非常に高い山に連れて行きます。そして、イエス様にこの世の国々とそれらの栄華をみんな見せます。そして、イエス様に言いました。

「これらをみんな、あなたにあげましょう。土下座して私を拝むなら」

そのとき、悪魔(サタン)にイエス様は言われます。

「去れ!サタン!書いてあるのだ。

『あなたの神なる主を拝みなさい。そして、主だけに仕えなさい。』と。」

そのとき、イエス様から悪魔は離れ去ります。すると、ご覧なさい。天使たちが近寄って来ました。そしてイエス様に仕えます。

 そのようなことをマタイはかいています。上記には、私が思ったことを説明的に挟んではいます。結局、大きな権力を得たとしても、悪魔に土下座をして、その権力を得ているならば、その人は悪魔の奴隷にしか過ぎない。

 悪魔の奴隷になるような人には投票したくないものです。

 また、イエス様の愛の中にいるには悪魔からの試しや誘惑から逃げることだ、とも思うのです。

 

氷川清話 (講談社学術文庫)

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