イエスの愛ーペテロへの
ヨハネ・ヤジロー
イエスの愛は、すぐにわからないことがよくあります。たとえば、ペテロへのイエスの有名な言葉。
新共同訳聖書(マタイによる福音書26章31~35節)にこうあります。
〔 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。
「今夜、あなた方は皆わたしにつまずく。
『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。
(注:わたしは主なる神様、打つは殺すこと。羊飼いはイエス様。ゼカリヤ書13章7節を参照してください。)
しかし、わたしは復活した後、あなた方より先にガリラヤに行く」
するとペトロ(ペテロ)が、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。
イエスは言われた。
「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏(にわとり)が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
ペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。 〕
ペテロへのイエスの言葉は、同じ原文からこうも訳せます。
「アーメン!あなたに言います。今夜、雄鶏(おんどり)が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言いなさい。」
「アーメン」と原文にあるのを「はっきり」という言葉に新約聖書は置き換えていますが、印鑑にたとえれば、アーメンを実印とすれば、「はっきり」は認印のようなものです。それで、ペテロ以下弟子たちは必死になってイエス様に返事をしたのです。
また、「鶏」を「雄鶏」と忠実に性別まで含めて訳したのはイエス様が捕まえられた後に人に見られないように外で激しくペテロが泣いた、つまり、男泣きに泣いたことも
意識したものです。
そして、「わたしのことを知らないと言うだろう」を「わたしのことを知らないと言いなさい」と訳したのは、二人称動詞の未来形には、この場合、単純未来よりも命令の意味、次には願望の意味の方が強いからです。彼らの宗教原語はヘブライ語ですから。
つまり、先生や親が教えさとすような形の未来形なのです。
それで、イエスの弟子たちは、おそらく、二十から三十才あたりの若い男性ですから「俺たちは男です」とイエス様に返事をしたのです。殉教、殉死を選ぶと。
しかし、弟子たちが殉教や殉死をすれば、それで、キリスト教は敵の罠にはまって終わりだったのです。キリスト教は自殺をしないように勧めます。
弱さに徹すれば生き延びられます。生き残ったものが最終的に勝利者となります。
そのためには、頑張らなくて良い。敵が罠を仕掛けて来たときには、臆病者と笑われても良いから、嘘をついてでも、踏み絵を踏んででも良いから、わたしのことを知らないと嘘をついてでも、生きることを選びなさい、とイエス様は教え諭されます。
悪人や敵に馬鹿正直であったら、命はいくつあっても足りません。
そうは言っても、そのときのペテロは惨めな気持ちであったでしょう。男として。
しかし、イエス様の言葉に最初はつまずいても土壇場で従ったペテロは真の勇者です。
そのペテロを裏切り者であるかのように言う人がいて、私は理解できなかった。
それで、新共同訳の翻訳に課題があるのかも知れないと思い、このように書きました。