イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

クリスマス

                           ヨハネ・ヤジロー

 

 クリスマスの季節になった。クリスマスが、救世主降誕祭というキリスト教のお祭りであることは、誰でも知っている。しかし、そのお祭りの形はキリスト教でも宗派により多様性があるようだ。何しろ、キリスト教徒(クリスチャン)である自分自身が、その一つの様式あたりの経験しかない。同じ宗派でも、歴史的、地域的、個人的な違いが様式に違いをもたらしているのだろうと推測するばかりだ。だけど、これだけは言えるかもしれない。何か楽しいのだ。個人的に貧しいときも何か気前よく楽しくやりたい。そして、心温まる思い出がよみがえり、何か心温まる思い出をつくろうとするのだ。

 幼いころはクリスチャンでない父であったが、父は私たち子供にプレゼントをしてくれた。そして、私も父になると子供にプレゼントをした。特にクリスマスには必ず。

 そして、天を支配しておられる万物の造り主である我らの父を思った。万物の造り主であられるから、当然、天父は人間の父、つまり、クリスチャンでない人の父でもあられる。私の父がクリスチャンでなくても、今はなき私の父が、天父の子であることには間違いはない。それで、日本ではクリスチャンでない人もクリスマスを楽しく過ごすのだろう。

 神様の愛に理屈はない。正義もない。あるのは、救いだ。天父は私たち人間同士がうまくやっていけるように戒められた。何々をしてはいけません、とか。それは、人間がしてはいけないことをすることがあるからだ。まぁ、罪を犯すのが人間だ。完全な天父が罪を犯す人間を造られた。罪には罰が伴う。いつも罰せられているばかりでは人生は苦痛そのものだ。それで、父が完全であられるには罰からの救いが必要だった。

 罰を受けている時は暗い気持ちだ。クリスマスのときは、暗い夜が長いときから短くなる境目のときだ。つまり、罰を受けて闇の中に住んでいるというか座しているようなときに輝く光が現れて来て何か心の中が楽しくなって来る。そこでお祭り。

 イエス様がお生まれになったユダヤの国は、当時、ローマ帝国進駐軍が駐留している小さな国で、ローマの属国だった。十代の若い娘が強姦されて未婚の母となることなどは珍しいことではなかった。そのような時代、マリアの夫となるヨセフは処女であるはずの乙女マリアが婚約中に妊娠したことを知る。身に覚えがないヨセフは、当然、暗くなった。ところが、ヨセフが暗い夜に見る夢は驚くべきものであった。

天使が現れて言うのだ。

「ヨセフ、ダビデの子よ、恐れるな、マリアを妻に迎えることを。聖なる霊によるおめでたなのです。マリアは男の子を生みます。その子の名をイエスと名付けなさい。その方がご自分の民(イエスを信じる人々)を罪からお救いになりますから。」

それで、ヨセフは眠りから覚めると主の天使が命じたとおりに行ったのです。マリアを妻として迎えたのです。主は自分の神様、天父ですからヨセフには恐れがなくなりました。これを救われるともいいます。そして、ヨセフはマリアがその子を産むまで彼女を知りませんでした。(性的に交わらなかった)。そして、その子の名をイエスと名付けました。そこで、メリー・クリスマス。