イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

断食

 断食

                         ヨハネ・ヤジロー

 

 夢という名の希望がなければ信じることは難しい。そして愛することができなければ夢が実を結ぶことは難しい。誰を信じるのか。それは神様。誰を愛するのか。それは神様。その愛の一番目に来るのは辛抱。神様を信じて辛抱して待つことは、神様を愛することです。人より神様を優先して愛することは大切と古代から預言者たちが戒めています。しかし、その神様を愛するという辛抱ができない人は、すぐ人から評価される行動に走ります。

 たとえば断食と書けば、現代の日本人は不思議に思うかもしれない。今の日本人にとって、断食は自分の健康のために行うことが多いからです。イエス・キリストの時代、人口増加に対して食糧の増産が追い付いていなかったように福音書の記事や歴史書から推測されます。それで、食糧が不足しているときに断食をする人は尊敬されます。周りの人に食糧が来るからです。そう、人からすぐ評価されます。そうはいっても腹が減っているのに断食するのは命を落とす危険もあり苦行です。

 そのことをイエス様の言葉(マタイによる福音書6章16~18節)から見てみます。(「断食」と通常は訳されている箇所を「断食苦行」とここでは今の日本人にわかりやすいように訳しています。)

「断食苦行をするときには偽善者たちのように暗い顔をしない。断食苦行で目立とうと彼らは暗い顔をします。アーメン、あなた方に言います。彼らは報われている。それで、断食苦行をするときには頭に油をつけなさい、顔を洗いなさい。断食苦行が人に見えないようにする一方で、目には見えないあなたの父に見られるためです。すると目には見えないことを見られるあなたの父は、あなたに報われます。」

 イエス様は神様から愛されるコツを述べておられます。

蛇足ですが、 当時の断食は、聖書に由来する宗教的伝統を重んじていることになり、ユダヤの同胞から尊敬を得やすい。それで、定期的にも任意にも断食をする人々がいたようです。

断食には飲食を一切絶つ形も部分的に絶つ形もあったようです。人には個人差、強弱がありますので完全な断食は期間を間違えれば命を落としかねません。