イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

 「宝」                       ヨハネ・ヤジロー

 

 明日(あした)には明日の風が吹く。明日どのような風が吹くかわからない。今まで生きてきてそう思う。それで、今日は神様に従って何とか生きよう。明日、地上にはいなくて天国にいるのかもしれないのだから。そう思うも、信仰が小さいので、死ぬのは怖い。明日、自分の希望に反して地獄にいるかもしれないのだから。生まれついての自己中心で自己制御ができなかったことが多かった。それで、明日死ぬのは怖い。

 そのように悩み苦しむとき、イエス様の言葉をふと思い出した。

「自分のために宝を地に貯(たくわ)えるな。そこは虫やさびが食うところ。そこは盗人が穴をあけるところ。

そこで、自分のために宝を天に貯えよ。そこは虫やさびが食わないところ。そこは盗人が穴をあけることもなく盗むこともないところ。

自分の宝があるところ、そこに自分の心があるようになるのだから。

人の体のランプは目、それで、あなたの目が良ければ全身が光り輝く。

でも、あなたの目が悪ければ全身が暗くなる。それで、あなたの光が暗ければ、どんなに暗いことか。

誰も二人の主人に仕えられない。それは一人を軽んじ、もう一人を重んじるようになり、また、一人に忠実になり、もう一人に府中となるから。神佐に仕えながらお金にもとはできない。

こういうことで、あなたたちに言う。

あれこれと心配するな。自分の命のことで何を飲もうか何を食べようか、自分の体のことで何を着ようかと。命は食べ物より大切、体は着るものより大切ではないか。

空飛ぶ鳥たちを見よ。種をまかない、刈り取らない、倉に集めない。

なのに、あなたたちの天の父は鳥たちを食べさせている。あなたたちは鳥たちより何でもできるではないか。

あなたたちの誰が心配して、背丈や寿命をのばせようか。

また、着る物のことで、どうして心配をするのか。野の花をよくよく見よ、どのように育っている。生きている。骨を折らない、紡ぎもしない。なのに、あなたたちに言う。栄華の極みソロモンでも、この花のように着てはいなかった。

今日(きょう)は野にあるも明日(あした)には炉に投げ込まれるかもしれない草だ。それでも、神様はこのように着せてくださるのだ。もっと豊かにしてくださるよ。信仰が小さいよ。それで、心配するな。何を飲もうか何を食べようか何を着ようかと言って。

これらは全て、異邦人(異教の民)が求めるものだ。あなたたちの天の父は分かっておられるのだ。これらは全て必要だと。

されど、先ずは天の父に従う正義を求めよ。(天の国と義とを求めよ)されば、これらは全て与えられん。

それで、明日は心配するな、明日自身が心配する。(明日には明日の風が吹く。)

今日の悩み苦しみは今日で十分。」

(マタイによる福音書6章19~34節)

 イエス様の言葉の明日(あした)という言葉は「吹くという言葉に関連する朝風」という言葉に由来する新約聖書ギリシア語辞典(玉川直重)にあり、風は神様や人の本体である霊を意味する場合もあり、イエス様の言葉は天地を造られた神様の働きと連動しているので、旧約聖書の筆頭にある創世記が頭に思い浮かぶ。