イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

人を裁く

 人を裁く            ヨハネ・ヤジロー

 

 イエス・キリストが人の子として生きていた時代も今もパレスチナは多言語・多民族・多宗教社会。その象徴がエルサレムで、当時、ユダヤ人がそこで話す宗教的権威をもつ伝統的な言葉はヘブライ語であったらしい。それは、今のイスラエルの主な公用語でもある。しかし、当時の多民族間の共通語はアラム語ヘブライ語とは兄弟言語)やギリシア語であり、パレスチナを支配しているローマ帝国ラテン語が中心の国。

 ヘブライ語旧約聖書の原語でもあるが、動詞の基本形は「彼」、つまり、第三者の男性が主役の言葉。一方、仕事で必要な共通語の代表はギリシア語で、今の英語に相当するが、ギリシア語も英語も動詞の基本形は「私」。ギリシア語新約聖書の原語。

当時の聖書は旧約聖書だが、原語のヘブライ語よりもギリシア語に翻訳された旧約聖書の方が広くユダヤ人に読まれていたらしい。それだけ、ユダヤ人が地中海世界に広がって存在していた証明なのだろう。また、ヘブライ語は男性形と女性形に区別する言葉だけど男性形が主役(基本形)の言葉。神様も男性形で一人の形つまり彼である神様が主役の宗教。一神教でも男性形の神様。初めの人はアダムで男性、イエス様の自称は人の子だが、ヘブライ語にいったん訳して文字通りにカタカナ混じりに訳せば「アダムの息子」と訳せる。これは、ヘブライ語に訳された新約聖書で確認している。

 何が言いたいのか。つまり、アダムの罪はアダムの息子(イエス・キリスト)の犠牲(十字架刑)により救われた、ということ。アダムは人類や人とも訳せる。

 また、生贄(いけにえ)の犠牲は、生贄がじっとした状態で丸焼きにできる訳ではないので、実際には磔(はりつけ)にされ殺されてから焼かれる。アブラハムが一人息子イサクを磔の生贄にしようとしたことを思い出す人もいると思うが、その生贄が焼かれる煙の香りを天(神様)に届けることで、人の犯した罪が赦される。つまり、贖罪(しょくざい)の古代から最高の犠牲の形が転じてのイエス・キリストの十字架刑なのだが、今の日本人にはピンと来にくいかもしれないと蛇足的に書いてみてみた。当然、そのとき、血も流される。それは、清めの血となる。その赤い血の象徴が赤ワインで聖餐(ミサ)の儀式のときに飲む。パンはイエス・キリストの体の象徴。象徴といえば美しい言葉だが、その源流は磔にした生贄を流血により殺して丸焼きにする全焼の犠牲。古代の人々は自分たちが犯した罪のつぐないに天の父なる神様に全焼の犠牲を捧げたのだが、イエス様は、今のようにパンとワインの形に儀式を美しく簡素にされた。しかも、イエス様をキリスト(救い主、救世主)と信じるだけで罪が赦されると無償の償(つぐな)いまで提供された。これにより、エルサレム神殿だけでしかできないとされた贖罪の儀式が、世界中のどこでも簡単にできるようになった。それで、イエス様は神殿が崩壊するとも三日で建て直せると言われたのだ。十字架の後、三日目に復活されることで証明された。また、キリスト教からの表現をすれば、ユダヤ教の贖罪の儀式はイエス・キリストにより儀式的に完成した。地中海世界に離散したユダヤ人から見れば、エルサレム参りをしなくてもすむ、負担がものすごく軽減されるパンとワインの儀式。

 あっ、最初に戻らなくてはいけない。そう、彼が中心の言葉ヘブライ語による旧約聖書を土台にして私が中心の言葉ギリシア語による新約聖書が生まれたのだが、人間は、私が中心でないと自己の危機管理が難しいので、自己中心になりやすいもの。しかし、人間はアダムにエバが神様から与えられたように集団で生活するようになっている。そこで、彼(神様)を自己の中心に置くことでセルフ・コントロールする。それが、キリスト教だけではなく世界の主流を占める一神教の教えなのだが、エゴはどうしても出る。そこで、人が人を裁くという事実が多く発生する。

 しかし、イエス様は、裁かないのは自分のためだ、と言われる。

「裁くな、裁かれないため、裁くさばきで裁かれるから。また、量(はか)る量りで量られる」(マタイ7章1~2節)

 続いて、人を裁くだけの実力を人は実際に持っているのだろうか、とも。

「どうして、同胞の目にある細い目ヤニを見つけられるのか。あなたの目にある太い目ヤニに気づかないで。また、どうして、同胞に言えるのか。あなたの目から細い目ヤニを取らせよ、と。見よ、あなたの目には太い目ヤニ。

偽善者よ、まず、あなたの太い目ヤニを取れ。そうすれば、同胞の細い目ヤニが取れるようにはっきり見えよう。」(マタイ7章3~5節)