イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

批判

批判

                     ヨハネ・ヤジロー

 日常的にある批判は、ある行いについての否定的な裁きであることが多い。それで、ある批判された人の言葉が今も私の耳に残っている。

「うん、その行いをぼくはした。だけど、その批判は、批判した人のものだよ。行いはぼくのもの。批判は批判した人のもの。ぼくの知ったことかな。」

それから、時がたち、その批判が的外れであることを私は知った。そして、イエス様の言葉をぼくは思い出した。

「裁くな、裁かれないため、裁く裁きで裁かれるから。また、量る量りで量られる。どうして、同胞の細い目ヤニを見つけられるのか。あなたの太い目ヤニに気づかないで。また、どうして同胞に言えるのか。あなたの目から細い目ヤニを取らせよ、と。見よ、あなたの目には太い目ヤニ。偽善者よ、まず、あなたの太い目ヤニを取れ、そうすれば、同胞の細い目ヤニを取るためにはっきりと見えよう。」(マタイによる福音書7章1~5節)という言葉に続く言葉だった。それは、こうだった。

「聖なるものを犬に与えるものではない。あなたたちの真珠を豚の前に投げ与えるものではない。そうしないと、足で踏みつけ、あなたたちに振り向き咬(か)み裂くよ。」(マタイによる福音書7章6節)

 それから、彼は賢い人だったにもかかわらず、どうして、批判を恐れず、行動をしたのだろうか、、聖書に出てくる預言者たちのような気持ちだったのだろうか。預言者の預言は予言とも書ける。つまり、預言には予言の意味もある。預言は神様から預かった言葉を短く預言と言ったものだが、神様は現在を起点として将来のことについて人間に教え諭そうと語られる。つあんり、神様は預言者を神様の代弁者として使われる。

また、預言は現在から将来についての言葉だから、予言とも書けるのだが、この言葉は条件付きだ。条件が変われば将来も変わる。親が子の将来を心配して言う言葉と似ている。だが、人間の親は時々間違える。神様は聖なる方だから間違えない。そして、人間の批判は人間のものだ。そのときに流れている空気に支配されやすい。その空気が良い方向に向かっていれば良いが悪い方向に向かっていれば悪い。それなのに我々は空気に支配されやすい。