イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

差別

                        ヨハネ・ヤジロー

 差別は深刻になりやすい。それは、差別をしている人の意識が薄いと言いますか差別されている人の痛みを感じていないから、と思われます。その痛みを逆に喜びと感じて人を差別する人がいたら、その人は人でなしです。

商品の差別化という言葉があります。この言葉を使う人たちは深刻な差別を受けた経験のない人たちでしょうか。目に見えないけれど深刻な差別と感じるときに就職や結婚のときの差別があります。生まれてくる場所や親は選べません。それで、差別を受けるのは心に深い傷を負わせやすく、自殺を含め過激な行動を伴う社会的な問題を引き起こしやすい。

もっと、差別でひどいのは常に差別を受けていると感じるときでしょう。一般の多くの人から距離を置かれる場合です。隔離(かくり)差別です。

そのような差別解消にイエス様が動かれた箇所があります。マタイによる福音書8章1から4節です。このように書かれてあります。

「さて、山からイエスが下られると多くの民がイエスについてきた。すると見よ、ハンセン病という重い皮膚病の人がイエスに近づき平伏(ひれふ)して言った。

『主よ、あなたがもしも望まれれば、私を清められます、清いと宣言できます。』

すると、イエスは手を差し伸べられ、彼にさわられて言われた。

『私は望む。清くなれ。』

するとすぐに、そのハンセン病は清められた。そして、彼にイエスは言われた。

『誰にも言わないように注意して、ただ、引き返して見せなさい、あなた自身を祭司に。そして(清められた)証明のためにモーセが定めた供え物をささげなさい。』」

日本でもハンセン病は最近まで「らい病」と呼ばれ、患者の人は、一般の人から隔離されていました。伝染病と思われていたからです。

しかし、日本語の聖書の訳は「らい病」から「重い皮膚病」に訳が変わって来ました。らい病からハンセン病に病名が変わってきたことと連動しているかどうかは確かめていません。重い皮膚病をハンセン病と明記すべきと思い、聖書の原語そのもの(レプロス)は何も変わっていないのですから。それで、ここではハンセン病と訳しています。そのほうが、イエス様がハンセン病の患者に直ぐ触られたとある記事にふさわしいと思ったからです。イエス様が触られた瞬間に隔離差別の解消がなされた。つまり、救われたのですから。人を救う行いはシンプルなほど愛と勇気を見る美しいものです。

隔離する必要がないのに隔離されるのは差別です。これは目に見えて感じることのできるひどい差別です。私の幼いころは「らい病」は恐ろしい伝染病とされていて、らい病患者の人には近寄ってはならないと教えられたものでした。

しかし、これが隔離差別であったことが公に認められるようになりました。

エス様のこの清めの出来事は2千年ほど前のことです。この清められたことの証明はモーセが定めた法(旧約聖書の最初から5番目までにある五つの書をモーセ法とも言いますが、律法とよく訳されています)による証明です。その証明は祭司の仕事でした。今は医者あるいは裁判官でしょうか。医者でもあり裁判官でもあったのが当時の祭司と思われます。