イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

葬式

                     ヨハネ・ヤジロー

 

 つい最近、通夜も含めて葬式に出た。不思議なことに亡くなった人の良かった所ばかりが思い出される。その人を失ったときに実感するものだろうか。また、そこで多くの関係者、親族、親戚の人たちと話す機会があった。すると、今まで理解できなかった行動が理解できるようになったことが多くあった。話は飛躍するが、とにかく、最後に残るのは愛だけなのかもしれない。イエス様の愛は十字架に代表されるのだけど、それを理解するのに五〇年かかった。本を読んでわかるものではない。様々な人生経験が私には必要だった。凡人なのだ。私は。

また、イエス様の十字架の愛をその弟子たちもイエス様が十字架にかけられる前はわからなかった。十字架にかけられてもわからなかった。イエス様が復活されてからわかるようになってきた。本で理屈を知っても、わかるというのは別だ。理屈は理屈。わかるという悟りとは別。悟ると人生における知恵が生まれる。言い換えれば、イエス様のように愛することができるようになってくる。それは、悟られにくい愛の姿を取ることが多い。

葬式で多くの人と話をできて、多くのことを学んだのは、亡くなった人のおかげだ。死というものは、人生とは何かと教えてくれる。

そこから、学んだ筆頭は、やはり愛だ。今は亡き父や母との思い出も、子として愛された思い出。中には悪口のようなものもあるが、その裏に愛を感じることが大切だ。表通りというか、真に受けてはいけない話もある。また、その場の空気に染まったとしても真実を知ろうとする気持ちを心の奥底に船の碇(いかり)のように持っていないと誤解が生じて怒りが生まれ大変なことになる。その場の空気だけで判断するだけではなく事実確認が大切だ。それに話を面白くしようとするジョークは大げさなものだ。大げさな話は真実の話からは的外れになることもあり、経験不足も手伝い、誤解が生じやすい。

それで、お互いに相手を大切に思う気持ちが大切だ。相手を大切にすることを具体的に短く言われたイエス様の言葉が胸に響く。

「私が愛したように互いに愛し合いなさい」

その愛を学ぶためには新約聖書を私は毎日のように読んでいる。その愛が宇宙のように広大なので、私のような者が直ぐにわかるものではないからだ。そして、読むだけではいけない。行動と経験がないとわかってこないのが、イエス様の愛だ。実際の私は、よく愛することで失敗をする。そして、その失敗に気が付いてから愛する方向を見出して愛することをやり直すことが多い。愛には根気がいる。