イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

信仰

                     ヨハネ・ヤジロー

 信仰と宗教は違うと思うのです。宗教は伝統や文化などの中に浸透をしていますので日常の平凡な生活のときには意識しないことが多いものです。それで、葬式や結婚式、お祝いごと、宗教的な行事つまり礼拝などのときに意識をしますか。

ところが、信仰は「苦しいときの神頼み」という言葉があるように問題を解決しようとするときに意識することが多いものです。たとえば、ある人が自分の力だけで解決できない問題を抱えますと、その人は信用できる方を頼って解決を図ろうとするものです。

すると神様に頼ろうとするときは解決方法がすぐに見つからないときですか。少なくとも私の場合はそうです。身近に頼れる人やものがある場合は信仰心は起きにくい。

しかし、「生きるべきか死ぬべきか」とか「死を意識する」ように簡単に解決できないような場合には「神様、助けてください。教えてください」というように信仰心は生じます。そのような典型的ともいえる信仰心を見ることができる例が、マタイによる福音書8章5~13節にあります。

「さて、イエスがカファルナウム(慰安村)に入られますと百人部隊長がイエスに助けを求めて近寄りました。

(百人部隊は、当時、世界最強のレベルを持つと思われたローマ軍団を構成する基本的な部隊。その隊長には部下を死刑にできるほどの強い権限が与えられていたらしく、この百人部隊長はカファルナウムに駐屯する部隊の長であったと思われます。)

百人部隊長は言いました。『主よ、若い者が家で発作を起こしました。ひどく苦しんでおります。』

すると彼にイエスは言われた。『私が行って、その人を治療しましょう。』

すると答えて百人部隊長は言いました。

『主よ、私はふさわしくありません。わが屋根の下に入っていただくには。ただ、お言葉だけをください。それで、若い者は治ります。それは、私も権威のもとにある人間ですので、私のもとには兵隊がおります。それで、この者に進めと言います。進みます。あの者に退(ひ)けと言います。退きます。わが僕(しもべ)にこうしろと言います。します。』

(私はふさわしくない、とは、私はユダヤ教の戒律を守らない異教徒だ、と言っていることです。ユダヤ教の戒律を守らない家にユダヤ人は入りたがらないものです。当時のイエス様はユダヤ教の先生(ラビ)と思われていました。)

エスは聞かれるとひどく感心されました。つき従っていた者たちに言われました。

『アーメン!君たちに言う。このように素晴らしい信仰をイスラエルの中で見たことがない。また言うよ。大勢、東西から人が来て、アブラハム、イサク、ヤコブと天国で食卓につく。だが、この国の子らは外の闇に放り出されるだろう。そこには、泣き叫ぶ声や歯ぎしりがあるだろう。』

アブラハム、イサク、ヤコブという表現はユダヤ教を間接的に表現します。ユダヤ教は伝統を守る民族宗教です。)

そして、イエスは百人部隊長に言われました。

『戻れ、あなたが信じたとおりになれ。』

するとそのとき、その若い者は治った。