イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

花嫁の父

                         ヨハネ・ヤジロー

 

 花嫁の父として経験をつい最近した。娘に結婚相手がいることを知ったのは去年のことだった。詳しい時期など覚えていない。ショックであったことは記憶にある。心理学の本を再読するなど、自分自身の心に生じた思いを正直に見つめた。時間がかかった。判断を自分の感情だけで行わないためだった。娘が結婚しないよりは結婚をした方が良い、と周囲の状況を見つめながら思うことにした。しかし、心の整理をするために聖書を読んだ。悟りのためではない。あきらめるためだ。自分自身で自分を説得するような作業だった。

 創世記2章18節にはこう書いてあった。

「主なる神は言われた。『人が一人でいるのは良くない。彼のために彼女を造ろう。彼と正面から向き合う助け手として。』」

正面から向き合う、という言葉は、ふさわしい、というような感じで日本語に訳されることがある。「ふさわしい」とは何かと知るために原語を直視した。すると「正面から彼と向き合う」という言葉(ネゲッド)から納得したことがあった。妻と夫婦喧嘩したときの妻の態度だ。妻の方が夫婦関係をぼくより理解している、と。そうすると、娘が選んだ彼氏のことも何となく理解できた。キリスト教の結婚式で、二人が向き合ってリング交換することも何となく納得した。儀式というのは本質を簡素に表現していると。

とにかく、結婚を認めてもらいたかったら(キリスト教の)教会で結婚しなさい、と娘に言った。すると、そういう結果になることで娘の結婚式を迎えた。バージンロードを歩く父親の気持ちをぼくは知った。そして、ぼくは花嫁の父となった。そして、ぼくは創世記2章24節を思い出した。こう書いてある。

「この故に、男は父や母を離れる。そして、女とくっつく。そして、一体となる。」

この一体は、文字通り読めば、肉体と肉体が一体となると読める。心が一体となるとは直接は読めない。それでよいと思った。人間とは間違える動物だ。一緒に間違えたら悲惨な運命が待っている。それよりは、正面から意見がぶつかるときがあっても良い。二人、一緒に道を間違えないために。そんなことを考えているとまたこうも思った。男に最もふさわしい相手は女だと。男と女は互いに向き合うものだ、と。一緒に道を間違えないための助け手として、男のために女はいるのだ、と。妻との間に生じる夫婦喧嘩の存在を妙に肯定した。

 しかし、喧嘩(けんか)ばかりしていては離婚が待っている。お互いに自分の意見を主張することも必要だが、お互いに辛抱(しんぼう)することも必要されるのが妥協。妥協(だきょう)は愛なのだ、と妙に納得した。男と女の間に勝ち負けはない。妥協という名の愛があるだけだ。その妥協という愛を美しい言葉で言えば、互いに愛し合う、という。その妥協のためには辛抱が必要だ。その辛抱には自分を犠牲にする気持ちが必要だ。自己犠牲という愛、その究極(きゅうきょく)の姿をイエス様の十字架に見た。礼拝堂の正面にある十字架を見つめてから祈るとき、祈りに効果があるように思えた経験もここから来るのだろうか。

 だけど、辛抱ばかりではトラブルは回避できても問題の解決までには至らないことが多い。そこで、解決のためには助けがいるものだ。その助けはどこから来るのだろう。親切という名の愛から来る。お互いに親切な気持ちとなり、助け合うときに問題が解決していったことを思い出した。そう、辛抱と親切は愛の両輪。第一コリント13章の要点を思い出した。

つまり、男と女はくっついて一体となるだけでは不十分で、互いに愛し合うことで、人生の道を歩いて行けるのかな、と思った。そうでも、思わなければ、花嫁の父となった事実を喜びに変えられようか。 

 前述の聖書の言葉は、ヘブライ語底本(ビブリア・ヘブライカ)を読みながらの確認であったので、少し、日本語としては、ぎこちない。