イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

身代わり

                         ヨハネ・ヤジロー

 働き方について細かな法律があり、また、そのような法律ができるそうだ。中身が複雑で、もっともらしく聞こえる。しかし、人にはそんなに複雑な生き物なのだろうか。

 定期的に休めれば、過労による問題は何も起きない。そう思う。そのことは聖書に一週間に一度定期的に休む安息日の定めがあることからも何千年も前からよく知られていることだ。日は上り日は落ちる。その間に労働を含めて、人は何もかもして、一週間に一度定期的に休めば、過労による問題は起きないように人の体は造られてきた。すると一日に8時間以上働くのは人間の体にとって危険だ。それなのに、どうして、働き方に関して細かな法律が必要なのだろうか。働かせる側に免罪符を与えるような法なのだろうか。それに、金持ちになる確実な方法は金持ちの家に生まれることだ。しかし、金持ちの数は昔から少ない。すると、一人の人間が過労するまで働いたとしても金持ちになれる確率は極めて少ない。それよりも、多くの人間が過労状態になるように働かせる立場になった方が、金持ちになる確率が高いことになる。

 アダムとエバしかいなかった時代には、金持ちはいなかった。王様も貴族もいなかった。奴隷もいなかった。しかし、アダムとエバの間に子供ができた。何人も生まれては何代も続いた。すると、いつの間にか金持ちや王侯貴族が存在するようになり、それに付随する奴隷またはそれに近い人々がはるかに多く存在するようになった。

金持ちを存在させるには多くの貧しい人々が必要だ。統計が昔から示している。

働き方の法律を新しく定めるために、データ処理の小細工などをしても、所得分布のデータはそれほど変わらないだろう。金持ちから見ればわずかな金のために、過労死等をしないことが賢明だと所得分布のデータは示している。

 また、世の中には貧乏くじを引かされる人間の数の方が多いことを知る。すると、多くの人は天に叫ぶ。最初の人アダムを造られた神様に叫ぶ。

「神様、神様、なぜ、私を見捨てた」と。

 その万人の叫びを天に届けるには、神様に届けるには身代わりの叫びが必要だった。その方の名はイエス

 イエス様は悪霊や病などに苦しむ人々を治療された。いやされた。人の弱さや病を背負われ人からそれらを取り除かれた。それなのに、人々はイエス様を十字架につけた。

「他人を救ったのだ。今度は自分を救え」と人々はイエス様を十字架にかけながらイエス様をののしった。ところが、私もこのような人の持ちやすい妬(ねた)みがあることに気が付いたときがあった。自分が妬みのために判断を誤った過去に気が付いたときがあった。イエス様を十字架につけたのはユダヤ人であって自分ではない、と思う人は多いかもしれない。しかし、人には妬む心がある。誰が、その妬む心が自分にはないと言い切れるのだろうか。人は誰もがイエス様の十字架のそばで十字架にかけられた罪人のようなものではないだろうか、と、自分の中にある妬み心の存在に気付いたときから思った。また、イエス様を十字架につけろと叫んだ人々ではないだろうか、とも。

そう、自分は簡単に罪人の仲間になれる存在なのだときがついた。そう、自分に中にある妬み心で、イエス様を当時の人々は十字架につけたのではないかと思った。そこにはユダヤ人限定の世界はない。万人の世界が存在する。妬みは怖い。

 ただ、そこに救いがあった。イエス様の十字架は予言者イザヤによる言葉が成就するためであったと。マタイによる福音書8章17節には「彼は我らの弱さや病(やまい)を背負った。そして、我らからそれらを取り除いた」とある。

また、イザヤ書53章4節にはこうある。

「まことに、彼は我らの弱さや病を背負った。

すると我らは彼のことをこう思った。神に打たれて苦しんでいるのだ、と。」

 多くの人はイエス様の十字架を見て勘違いをするものなのだろうか。

自分の身代わりのためにイエス様が十字架にかけられたと気が付かないで。

それで、イエス様はこう叫ばれた。

「わが神、わが神、なぜ、我を見捨てた。」

天地は暗くなり、人と神様とを隔てる神殿の聖所の幕が真っ二つに裂けた。

神の子イエス様の叫びが、人と神様とを隔てていた幕を取り払われた。

エス様の身代わりが成立した。救いの願いが成就した。イエス様すなわちキリスト(メシア)としての本来の念願が成就した。

そして、明日がイエス様の十字架からの復活を祝う日曜日。安息日は土曜日から日曜日へとキリスト教では変わった。