イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

聖書と歴史書の違い

ヨハネ・ヤジロー

 

 聖書には歴史的な物語が描かれています。でも、我々が学校で学ぶ歴史とは違うのです。学問としての歴史は、現代から百年前くらいのことは生きた関係者もおり、権力が恐いこともあり、大切な真実を語らないことが多い。それより、昔のことでも外面的な出来事を語ります。

 一方、聖書は内面的なことを語ります。聖書の歴史的な部分は、心の歴史なのです。それで、実際に起きた順番に語られないこともあります。聖書の中でクリスチャンが最も読んでいる福音書は、実際には歴史書としても大切に扱われてはいますが、四つの福音書では起きた順番が前後することがあります。それは、福音書の記事を書いた者が、心で感じた真実や真理を簡潔に述べるために、外面的な出来事を編集したことによると思われています。実際に起きた順番よりも、記者が心で思った真実や真理を語る目的を優先したのです。そのように優先したのは、外面的な事実だけでは、犯罪にならなくても、内面的な事実では犯罪になることが多いと思われることも一因です。裁判で、真実をしりたい、という声が多いでしょう。心の真実を語ることを優先したのです。

聖書は、人生における真実や真理は何か、と証言をしています。それで、人生経験を積んでいけばいくほど、その人の人生経験に応じて、聖書が語っていることを悟っていきます。もちろん、すべてを悟ることは不可能です。千年も一人の人間が生きることは不可能ですから。長くて、百年くらいですか。それで、その千年の人生経験をするためもあり、人は集まります。人それぞれ人生経験が違い、また、共通もしている部分があるからです。クリスチャンは日曜日に教会に行きます。

その集会で、必ず読まれるのが聖書です。仕事が終わってからの自由な時間ですから学校の教科書を勉強するような形では面白くない。それで、聖書は昔物語や夢物語のように語られます。つまり、聖書は外面的な事実を内面的に処理をしてから語ります。

特に奇跡物語には、そのように思われる個所があります。まぁ、仕事が休みの日です。

その集会で誰かが声を出して読みます。それを周りの者が耳で聞きます。そのような形式に適しているのが聖書です。一人で聖書を読んでも恵みはありますが、多くの者が集まり、朗読された聖書の箇所を多くの者で話し合うと人それぞれの人生経験が語られることになり、その人なりの悟りが得やすくなります。

 おとぎ話という名の畑の地中に隠された宝さがしを一人でするよりは、みんなで掘った方が宝を発見する時間が短縮されます。

 そのような奇跡物語の一部がマタイによる福音書(9章18~26節)にもあります。

「イエスがこのように語られていると、見よ、ある司(教会堂長ヤイロ)が来て、イエスに平伏しました。そして言います。「私の娘が今しがた死にました。でも、来て、娘に手を当ててください。すると、娘は生きます。」

するとイエスは立ち上がって、彼について行かれた。また、弟子たちも。

すると見よ、出血で12年ものあいだ苦しんでいた女がイエスの後ろから近づいて、イエスの衣のすみにある房(ふさ)にさわった。それは、彼女が自分に言い聞かせていたからだ。イエス様の衣にさわるだけで救われる、と。

それで、イエスは振り向かれて彼女を見て言われた。「安心しなさい、娘さん、あなたの信仰があなたを救ったのです。」そのときから、彼女は救われた。(治った。)

それから、イエスは、その司の家に行かれるが、(葬式の慣習として)笛を吹くたちや(葬式の仕事として)泣き叫ぶ者たちを見られて言われた。

「帰りなさい。この子は死んではいないのだ。眠っているだけだ。」

すると、彼らはイエスを馬鹿にして笑った。しかし、彼らが追い出されてから、イエスは入って行かれて、彼女の手を取られた。すると、少女は起き上った。これは、その地方一帯のニュースとなった。」