イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

ロゴスと言霊(ことだま)

ヨハネ・ヤジロー

 ロゴスというギリシア語に由来する日本語にロゴという言葉があります。ロゴマークのロゴのように使われることが多い言葉です。このロゴスはヨハネによる福音書の冒頭に出てくる言葉「初めにロゴスあり」です。これは「初めに言葉があった」といった訳で日本語聖書(新共同訳)にあります。

このロゴスという言葉の持つ意味は多いのです。それは、媒介的に使われるからです。とにかく、「言葉」と訳しておけば間違いが少ない言葉です。英語の聖書(KJV)では「the Word」(ザ・ワード)と大文字で表現しています。大文字で表現するのは、神様の特性を示した別の表現ですから、単なるワードという意味ではないですよ、ということで、この雰囲気を表現している言葉には日本語で「言霊」(ことだま)という言葉があります。

古来、日本(やまと)という国は言霊の助けや恵みにより幸せを得ている国という言い伝えがあります。イエス様の使徒ヨハネは、イエス様のことを言霊と媒介的に表現したのです。

別の媒介的な表現をすれば、キリストまたはメシアです。しかし、キリストの本質は聖霊ですから言霊とヨハネ福音書の冒頭で述べたのには大切な意味があります。

 この福音書の冒頭の言葉は、聖書の冒頭の言葉(創世記1章1節)から影響を受けています。それは、こうです。

「初めに大御神(おおみかみ)は天と地を造られた。」

この大御神という言葉は日本語聖書では「神」とシンプルによく訳されています。

でも、原語はエローヒムです。これは直訳すれば「神々」ですが、動詞を見れば単数形ですので「神々の神」という単数形の意味、つまり、「最高神」の尊称ですので、その雰囲気から大御神とここでは訳しています。イスラム教徒が「アラーは偉大なり」と叫び祈るアラーをヘブライ語で言うならエローヒムです。イスラム教徒の聖典の一つに創世記があります。コーランイスラム教の代表的な聖典ですが、創世記もまたイスラム教の聖典です。

 英訳聖書では大御神をGodと表記してgodと表記しないことで、単なるゴッド(神)ではないよ、天地創造の神様、万物の創造主である最も偉大な神様ですよとgをGにして表現をしています。すると、大御神(大神)と表現するのは日本語らしいと思います。

そこで連想するのが天照大御神アマテラスオオミカミ)。

そこで、創世記1章1~3節を見てみます。

「初めに大御神は天と地を造られた。地は形も何もなかった。闇が原始の海を覆っていた。その海の上を大御神の霊が飛び回っていた。大御神は言われた。「光あれ。」すると光があった。」

そして、ヨハネによる福音書1章1~5節を言霊を用いて見てみます。

「初めに言霊あり、言霊は大御神のおそばにあり、すべてはこの方によりなり、この方なしになりしものは何も一つもなし。この方に命あり、この命は人の光なり。この光は闇に輝き、闇はこの光を覆いかぶせなかった。」

また、その福音書の1章10節。

「この光はまことなり。すべての人を照らす。この世に来て。」

そして、その福音書の1章14節。

「また、言霊は人となられ、我らの中に住まわれた。その方の栄光を我らは見た。御父の一人息子(神の初子:人の罪を赦す最高の生贄、十字架による犠牲)としての栄光を。恵みとまことに満ちていた。」

そこで、気になるのは、父なる神様とその子イエス様との関係です。キリスト教ユダヤ教イスラム教徒と兄弟宗教で一神教なのに神様は複数存在するのか、という問いです。三位一体という表現がありますが、媒介的な手法を用いたという表現です。

 媒介的な説明は使徒パウロの手紙にありますが、パウロと同じユダヤ人で、パウロよりも20年ほど前に生まれたと推定されるユダヤフィロンのロゴス論が興味深いのです。これは、伝道などの目的もあり旧約聖書ギリシア語への翻訳が行われていた時代と連動し、また、新約聖書が初めからギリシア語で書かれていたこととも連動をするのでしょうか。ユダヤ人の歴史学者アブラム・レオン・ザハルによればフィロンは神様のことを研究するのにギリシア哲学のプラトンの手法を取り入れたのです。今でいう神学という学問にプラトンの手法を用いた。それが、ロゴスという表現になったということです。物理や数学でもパラメータを用いる媒介的な手法で答えを出す手法があります。つまり、限定的な媒介条件で、必要とされる答えを導き出すときに用いられる手法です。

 この場合の限定的ではあるが、必要とされる答えとは何か。それは、罪深い人間を救うための答えを神様が出すということです。直接、天にまします父なる神様が人を救うことはなさらないで、神の子イエス様が十字架におかかりなるという犠牲という媒介的な手法で人を罪から救われるのです。

 キリスト時代にはフィロンの媒介理論はユダヤ教の主流派(ファリサイ派)などから不評でしたが、ユダヤ教の一派であるナザレ派(後のキリスト教)ではパウロを通して発展的に受け入れられた理論と思われます。つまり、キリスト(メシア)は従来ユダヤ人が信じていたダビデ王のような神の子的な存在ではなく、人の罪のために十字架におかかりなる神の子イエスであると証言するためにヨハネは用いたのです。

ロゴスや十字架という媒介手段を通して、天にまします父なる神様は、罪を犯した人を間接的に救われるということです。