イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

禁断の実と悟り

 神様が造られた初めの人アダムはパートナーの彼女がくれた禁断の実を食べた。禁断の実がなっている木の名前は、直訳すれば、「善と悪を知るための木」または「善と悪がわかるための木」。神様の教えや戒めは「何々をするな」という禁止の言葉が多い。神様の言われたとおりにしておけば、罪は存在しない。罪が最終的にもたらす結果は「死」という罰なので、死んではいけないと神様は戒められた。しかし、最初の人は彼女からもらった禁断の実を食べた。これを男と女の肉体が一つとなることに関する罪と思っている人がいますが、それは一部のことで、その意味はとても広い。

禁断の実を食べると、神様のように善悪を知る、神様のように善悪がわかるようになるからです。

別の言い方をすれば、禁断の実を食べれば、悟るようになる。

しかし、代償は大きく楽園(エデンの園)追放と死です。

知らない方が気楽で良い。でも、ご先祖様の二人が禁断の実を食べたのですから、その子孫の我々も食べる性質を受け継いでいるのです。禁断の実を食べるという性質、罪を犯し、その苦しみの結果から、善と悪を知り、悟りを得ていく。

 人間には制御不能と思えるような悲しい体質、つまり、罪を犯す体質をご先祖様から受け継いでいる。人間一人の力には限界がある。

それで、すべての人は罪から救われなければならなくなる。

 その方法は単純と「イエス様をキリスト(救い主、救世主)」と信じる人々を世の人々はクリスチャンと呼びます。罪を犯さない人はこの世に存在しないという悟りから真のクリスチャンは生まれます。

悟りとは真実や真理を知ること、わかること。ただ、その深みや広さ、その高さははかり知れないので、悟ると言ってもたかが知れている。そのたかが知れているという謙虚さ、無の心といいますか、心の貧しさがある人こそ、聖人です。また、その八福の教えをまことに知り、行える人を聖人と呼びます。

 最初の悟りの感覚は、たアダムとイブ二人の目が開けた、という感覚です。賢くなりそう、と思って禁断の実を食べた二人の目は開けた。つまり、悟った。最初に知ったのは二人が裸であること。禁断の実を食べる前の二人は裸であったのにお互いに恥ずかしいとは思わなかった。悟ったばかりに近くにあったイチジクの葉を縫い合わせて腰に巻くことをした。神様を避けるようになった。仕上げは楽園追放。ふと思います。大人になるよりは神様をお父さまと慕う子供でいたい、と。現実を鏡で見れば、私の頭は白いもので覆われている。

 それでか、福音書には盲人の目が開けて見えるようになったいう記事があります。

マタイによる福音書9章27~30節あたりの記事がその一つで、こうあります。

「さてそこからイエスが出ていかれると二人の盲人がこのように叫びながらイエスについてきた。『あわれみたまえ、我らを、ダビデの子よ。』

それで、家に入られたが、盲人たちはイエスに近寄った。

するとイエスは言われた。『信じるか、できると。』

二人はイエスに言う。『はい、主よ。』

そこで、イエスは二人の目をさわられて言われる。『信じた通りになれ。』

すると二人の目が開かれた。」