イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

天罰

  天罰とは神様から下される罰で軽いものから重いものまであり多種多様。

「こんなことをしたので、していたので罰が当たった」と日常的に思うことは多い。

天とは神様を遠回しに述べる表現なので、幅広く使われる言葉。しかし、天罰という言葉はイエス・キリストのイメージとかけ離れているという人がいて、驚いた。

天罰が下るからイエス様をキリストと信じる。罪を犯せば罰が下る。その罪を犯さない人は、イエス様をキリストと信じる必要がない。天罰が恐いから信じるのだ。

たとえば、人殺しや盗みを働いて、信じているから救われる、と人前で言うのは天を恐れぬ言葉で、その裁きは天から下る。信仰とは天からの裁きを恐れることが基本。無知による罪は誰でも犯す。それでも、罪は罪だから天罰は下る。神様の本質は真理であり真実の存在なのだから、無知がなした罪でも罰が下る。パンがなければ、クッキーでも食べれば、というような無知な言葉でギロチンにかけられた人もいる。

そう、イエス様をキリストと信じれば天罰から救われるといっても、信じたかどうかの判断は人間の側にあるのではなく天の側にある。あくまでも、救われるという結果は神様からもたらされる。そのような謙虚さがない信仰で救われることはない。

「人は、皆、罪を犯す」という不変の真実がある。その真実を人は勝手に解釈して、自分を自分で赦す真実や真理としてはいけない。天罰を恐れて、犯した罪の赦しを神様に願うべき。それは、救いは神様の方からもたらされるからだ。

 神様がモーセにご自分のことを語られた言葉(出エジプト記34章5~7節)がある。

「私は憐れみ深い、恵み深い、怒るに遅い、慈しみ深い、真の神、恵みを幾千世代にも保ち、あらゆる罪を赦す神、また、父祖たちの罪を清めて清めることなく、子、孫と三代、四代とわたらせて罰する神。」

それを聞いてモーセはあわてて地に頭を付けるように神様に平伏して言う。

「私がお目にかなう者でしたら、主よ、どうか、主よ、お行き下さい、我らの中を。民は高慢で強情で罪深い者たちでありますが、お許しください。我らを主のものとしてください。」

 イスラエルの民は選民と言われるけど、現代の我々と同じようなあらゆる罪を犯していた。それをモーセが必死に謙虚に神様に恩赦を求めたので救われたどころか、祝福も受けた。

甘えや高慢のある心からもたらされるような信仰ではなく、モーセのような謙虚な信仰がないと救われません。

自分たちのような高慢で強情な者でも何とかお救いくださいという謙虚な信仰がモーセにあったのでイスラエルの民は神様から特別に目をかけられた。選民となった。

 ヨハネヤジロー