イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

古代と現代のキリスト教会との違い

 古代の新約聖書時代のキリスト教会と現代のキリスト教会との違いについて思った。

そう思ってみても、現代は数えきれないくらいの教会があり、宗派も多様だ。表面的な違いは個人的に知っている範囲をはるかに超えて多いだろう。個人的によく知っている教会も日本にある北部九州のいくつかの教会しかない。教会に行くようになって50年未満だ。そのような狭い経験でもこれだけは言えるだろう。

 古代も現代も本質的というか、真実や真理という面では変わりはない。つまり、このことは昔も今もこれからもキリストの教会は存在をしていくということだ。

何で、そんなことが言えるのか。簡単である。新約聖書を読めばわかる。特に、使徒パウロの書簡だ。教会の様々な課題や深刻な問題について書かれてある。現代と本質的に同じなのだ。つまり、教会に来ている人々は、古代も今も変わらない人々の集まりなのだ。理由は、人間の本質が変わらないからだ。その真実からくる行動様式も変わらない。真理というものは変わらないのだ。

その証拠を具体的に示すのは恐い。そう、もっと具体的に書くのは恐い。身近でわかりやすい真実を具体的に書けば書くほど名誉棄損で裁判に訴えられる可能性が高くなるからだ。

それで、せいぜい書けても「おとぎ話」のようなたとえ話だ。すると、新約聖書福音書を読めば良いことになる。そこは聖書の中で、そのことでも最も光り輝いているからだ。

身近で具体的なことは福音書から悟るに限る。誰も迷惑しない。高いお金で探偵を雇う必要もない。

もっと具体的なことは新約聖書の書簡集にある通りで、あとは真理や真実を悟って具体的に応用するだけだ。それもこれも古代も現代も人間の本質が変わらないからだ。

これくらいは、書ける。教会の中でもあらゆる差別が存在し、貧しい人や弱い人の数は多く、性的な乱れも存在することだ。意見の違いからくる争いもある。つまり、教会内も教会外も起きている出来事の内容はそんなに変わらないのだ。ただ、教会内の方が、悲劇の数は少ないと経験的に思う。それで、教会内の方が住み心地が比較的良い、と証言できる。

それは、教会の内部で、イエス様の犠牲による仲直りがあるからだ。その犠牲の象徴は十字架なのだが、古代の血を流す生贄(いけにえ)の儀式を具体的に知らない現代人にはピンと来にくいかもしれない。今はミサ(聖餐式もしくは晩餐式と呼ぶ宗派もある)だ。

生贄の儀式からにミサ(聖餐式、晩餐式)に変更されたことは、神様と人との契約の形式が極めて簡素に変更されたことを意味する。これで、キリストの教会は古代から生き続けている。人は罪を犯すものだ。その自覚があって、聖なるパンとワインをいただく。そこで罪のゆるしが生じる。そこにイエス様のキリストとしての働き、愛がある。

 その愛と何かと使徒パウロは第一コリント13章で語る。その愛を行う人たちがいるからこそ教会の中は住み心地が良くなる。その愛の典型の筆頭に来るのが辛抱、親切。

それだけではない。熱き情熱は持っていても妬んで相手を傷つけない配慮も愛、そう、相手を自慢などしてはずかしめないこと。あらさがしをしないこと。私利私欲に走らないこと。愛からくる折れない心は倒されても立ち上がれる。相手から見れば倒れない。

それは不正を喜ばないで真理を喜ぶから。

そのような愛がある人々により、キリストの教会は、この世の中のどこにでもいる人々の集まりでありながらも、古代から現代まで続いている。数多くの過ちや罪を犯したにもかかわらず。