イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

神様の正義とは義なり

 「神様の正義とは義なり」。つまり、「日本語訳聖書では「義」と「神様の正義」を翻訳しているのです。義を正義と訳してもいいのでしょうが、人間が思う正義と神様の正義とは全く同じではないのです。勧善懲悪であっても恩赦もまた神様の正義なのです。神様は聖書にある通りに「恵みたい者に恵まれ、赦したい者を赦される」のですから、つまり、人の感情や気持ちそして頭脳をはるかに超えた次元・・・神様は全知全能で万物の造り主なのですから、その権威はとうてい人間の及ぶところではないのです。そこのところを押さえておかないと議論や疑問が泉の水のごとくわいてきます。死刑制度についての議論や疑問が代表されます。人間の目から見れば、この世の中は例外的なことが事実として存在しています。ついこの間のことです。教会に集まって聖書を読み、学ぶときにも「義」の具体的な中身の話に及ぶとき、人間が思う正義との混同がありました。すると、聖書を読んでもわからないことばかりです。つまり、人間のレベルで聖書に書いてある義を考えたからです。人間を神様のように扱ってはいけません。そんなことをすれば、「殺すな、盗むな、犯すな」というような当たり前の法が破られて行きます。近年では世界大戦で経験済みですが、規模が小さな小さなところではオウム真理教の人々が人間を神様のように扱ったから「殺すな、盗むな、犯すな」という正義が破られました。

 確かに、一番大事な神様の正義とは、神様を一番目に愛することです。だからこそ、人間を神様のように扱ってはいけないのです。神様の命令が一番優先されます。

しかし聖書の神様は人間の目に見えない。そこで、聖書を学ぶ人々は、祈ります。祈りとは神様との会話でもあります。すると、神様のお考えがわかって、そのように行います。これが、神様を一番目に愛することです。でも、自分の中にこだわりなどがあって、謙虚な心などがないとないときは、神様は沈黙されます。また、神様はご自分のお考えを祈っているものがわからないときにも沈黙されます。祈っても答えは返って来ません。神様の沈黙があります。このとき、勘違いはいけません。神様はいないのではなく、神様はおられるのです。ここが、神様が恵みたい者に恵まれるゆえんなのです。人間が自分自身を神様のような立場に立って判断すると「神様はいない。信じられるのは自分だ。いや、金だ」とかいう気持ちになってきます。

 そこで、クリスチャンは、イエス様を思い出すために、イエス様の十字架での犠牲の死と復活を深く思い、その象徴であるパンとワインを定期的にいただきます。

そのとき、神様の正義に不従順であったこと(罪を犯したこと)を思い起こし赦していただく。そう、自分の罪や穢れから清めていただくために自分自身の心が張り裂けたかのように・・・つまり、まことの謙虚さをもってパンとワインをいただく。そのような信仰を持つとき、人は神様から義とされます。