イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

炎の人パウロ

 聖パウロは炎の人だった、と新約聖書を読むたびに思う。その情熱は炎のように熱いのですが、どうも、日本人は感情をあらわにした表現を避けます。恋人と歩くときに、「君を愛してる、君の瞳はきれいだ」とは言えずに「街の明かりがきれいだ」とか告白します。それで、原書からの日本語訳が・・・今ひとつとなりやすい。でも、パウロは純粋なだけです。天才特有の純粋さです。天才ですから一言で多くのことを表現しようとします。それも、彼なりの厳密な理論といいますか、彼にとっては共通の原則、理論ではあるのですが、それでもあり、このくらいは知っているはずだと彼は天才特有の省略した表現をします。そこを理解するとパウロの手紙は読みやすくなります。

 たとえば、パウロは自分はイエス様の奴隷と手紙で書きます。でも、これは「恋の奴隷」的な感情なのです。あなただけ、あなただけという情熱でイエス様を慕っている。これがイエス様をキリストと信じるパウロの信仰です。熱いのです。この熱さを感じる人にペテロもいます。漁師であったペテロが漁をしていたときイエス様に気づいて湖に飛び込みます。ペテロがそのとき裸で漁をしていたからです。ですから、ペテロにとってイエス様が十字架にかかるということは絶対にあってはならないことだった。心の底からイエス様が好きだったのです。ずっとイエス様と一緒にいたかった。死ぬほどイエス様が好きだった。これは彼らの殉教の感情でもあります。心中にほぼ近い。

 パウロもそうですが、この感覚は一神教の感覚でもあります。浮気はいけないのです。多神教は浮気を認めています。よくある日本人の一生は多神教そのものです。生まれてから七五三で神社参り、結婚式はキリストの教会、葬式は仏教。クリスマスも大好きです。サンタクロースはキリスト教の聖人に由来します。

 多神教では不倫は宗教的な文化かもしれませんが、一神教ではだめです。一神教の神様は熱情の神様だからです。浮気はご法度です。それで、十戒の一番最初に来る戒めがこうあるのです。モーセに神様はこう告げられました。「私はあなたの神、主、私があなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した。あなたに私以外の神々があってはならない。」その後、モーセにこうも言われました。「あなたは他の神を拝んではいけない。私は熱く妬み深い。その名は熱情、妬みの神。」と。

熱情と妬みはヘブライ語の原語では一つで「カナ」です。日本の古語「愛し(かな・し)」を連想する言葉です。これは今の「悲し」につながる言葉ですが、自分では抑えきれない痛切な感情表現です。古(いにしえ)を思えば、神様の名は愛とも訳せます。

それで、神様の愛は炎のようです。それで、神様の本質「聖霊」は炎で表現されることもあります。それで、パウロも炎となって神様と親しまれたのです。殉教には心中的な感情があります。イエス様の愛は熱い。その故に十字架にかかられた。それにパウロも炎となって応答した。アーメン!  ヨハネ・ヤジロー