イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

χαρισμα(カリスマ)

 カリスマ(χαρισμα`)はギリシャ語に由来します。もともとは、贈り物の意味です。その最上のものは天からの贈り物、つまり、神様からの贈り物です。賜物(たまもの)と短く言うことがあります。また、日本人がよく使う使い方のカリスマの意味もあります。文脈で判断するしかありません。神様からの授かりものだけは個人の努力で得られるものでありません。スポーツや歌、芸術などから見てもわかるように明らかに神様からの授かりものがなければ、結果が人の心を打たない・・・そのカリスマは誰もが知ることですが。

 カリスマの中で誰もがもらえる最高のものは「永遠の生命」。神様からいただく最高の贈り物です。新約聖書は、そのカリスマを中心に語られます。その対極の位置にあるのが労働などによる報酬です。食べなければ肉体は生きていけません。やがては死んでいく肉体のためにもらうお金などと対極的な位置にあるのがカリスマです。

カリスマはカリス(恵み)から来ている言葉です。アメージング・グレースのグレース(グレイス)です。だから、個人の力では得ることのできない天からの贈り物、それが、カリスマです。

 また、勲章などもカリスマです。そのようにカリスマの意味は広いけど限定されています。

 また、犯した過ちや罪が赦(ゆる)されること、恩赦もカリスマです。

 特に神様から赦されることが恩赦の中で最高の賜物です。身近な人や他人が赦していなくてもかまわない。神様が赦された人を赦さない人がいれば、その赦さない人は神様から罪人とされるほどの力のあるカリスマです。イエス様からのカリスマは犯した罪や過ちが赦されることです。イエス様がキリスト(救い主)と頼られる所以です。

 それ以外で、誰もが持っているカリスマがあります。探せば、誰でも、どこか良いところがあるものです。それもカリスマです。そのよい所(カリスマ)を認め合って互いに助け合って行きましょう、と聖パウロは第1コリントなどで述べています。

 最近、会話がまともにできないダウン症の男の子のカリスマを見ました。知らない若者(男性)が女友達と教会に来ました。当然ですが、教会の人々に対して距離感を持っています。しかし、そのダウン症の男の子は、その若者にニコニコしながら近寄り肩に手をまわしたのです。誰もがマネのできない歓迎の仕方でした。周りの緊張感が解けてフレンドリーな雰囲気を作る行動でした。これもカリスマです。教会では宣教師などに求められる行動が、そのダウン症の男の子は簡単に誰よりも先にできたのです。会話などまともにできないのに。愛とは何かと教えられる行動でした。

 教会も組織です。誰もが何かしらのカリスマを持っています。そのカリスマを互いに出し合っていくとみんなが明るく生き生きとしてきます。暖かい血の通った組織になります。逆に、あの子はダウン症だから人前に出すな、というような組織であれば、人が一人二人といつの間にか去って行く組織と成って行くでしょう。

 必要とされていない人はいない、と聖パウロはカリスマから説きます。

                    ヨハネ・ヤジロー