イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

愛は親切で情け深い

 イエス様の愛(キリストの愛)を聖パウロは第1コリント13章を中心に述べています。この愛の大切さを述べる前に聖パウロの頭にあったのは、教会内の人間関係の問題です。それは、第1コリント(コリントの信徒への手紙一)を読めば・・・古今東西どこにでもある人間関係の問題です。

 最近、どこかの国の協会それも複数の協会で問題があることが暴露されていますが、人間関係の問題から組織的な問題になる、または、組織の問題が暴露されることがよくあり、そのようなことで、集団内部の人間関係に悩み苦しんだ経験は誰でもあると思います。

人が集団を形成すれば、争いが生じるものです。これは避けられない。人には個性があり、人生経験も様々ですし、育った背景や人間関係にも違いがあるので、ものの見方や考えに相違があるのが当然で、人は過ちを犯すものですから、争いは生じるものです。

 それで、キリスト教では愛が一番大切と説くのです。その愛は半端なものではありません。イエス様の「なんじの敵を愛せ」という言葉に集約されるからです。これは、実際問題として、なかなかできなかった経験が誰にでもあると思います。書いている本人もそのような経験があります。まして、敵の用意した十字架にかけられる究極の「敵を愛する愛」など・・・・。私は十字架にかけられたくないと逃げた経験があります。

 でも、「すぐ怒らない」ことなら誰にでもできそうな愛です。頭に血がのぼるといいますか、急に熱くなるというか、「かっとなる怒り」が生じた経験は誰にでもあるでしょう。

 この怒りは自己制御が難しいものです。失敗につながりやすい怒りです。それで、聖パウロは、愛とは「怒るのが遅い」つまり、「すぐ怒らない」で辛抱することだ、と述べ、次には「親切で情け深い」と述べます。「親切で情け深い」と原語から訳さずに「情け深い」とか「親切」と別れて訳される言葉でもありますが、本当の親切は情けがなければできないものです。それも慈悲深い気持ちが必要なときがあります。

 カッとなると報復をしたくなるものですが、少しクールになって状況判断をして相手が喜ぶ親切な行いで返すことができれば、悲劇は避けられます。そして、仲直りとなれば、良い協力関係が築けて、人間が集団生活をしている効果が最大限発揮できるようになります。

 愛はすぐ怒らないで親切で返すものです。情けがある、とはそのようなものです。

このような愛は本当の勇気や忍耐が必要なときがあります。

 ヨハネ・ヤジロー