イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

この愛は終わらない

 愛には終わる愛もあります。終わりやすい愛もあります。ギリシャ語でエロスと呼ばれる愛は、誰もが知っている身近に存在する愛ですが、終わりやすい愛です。

エロスの代表格は男と女の愛です。また、仕事や会社への愛、特定のスポーツチームへの愛も終わりやすいものです。生きていても物として存在するものへの愛は、終わりが生じやすい。エロスの特定の部分を特別に表現しようとするとき、日本ではエロと表現します。終わりやすい愛だとわかりやすい表現です。

 福音書は終わらない愛について語ります。その愛はギリシャ語でアガペー(αγαπη)と呼ばれています。福音はイエス・キリストの愛について語ります。

その核心は十字架にかかられたイエス様の惨めな姿にあります。「どうせ、殺されるならば剣を取って華々しく切り死にしたい。ユダヤ民衆の英雄として死にたい」とイエス様の弟子たちは願いました。昔の尊王攘夷の志士たちにも似た愛を彼らは持っていた。しかし、イエス様はご自分一人だけで惨めに殺される死を選ばれました。「人を救った者よ、自らを救え」と敵たちから辱められ無抵抗に惨めに、しかも、激痛の中での死を選ばれました。キリストの愛のゆえに。当時の弟子たちは若かった。イエス様の十字架が全く理解できなかった。死ぬならかっこよく死にたかった。苦しめられている民衆の側に立つ英雄として華々しく戦い、死にたかった。救いの志士として死にたかった。若いペテロたちは惨めに死にたくないとイエス様を否定して逃げました。その逃げる弟子たちをイエス様は愛して見ておられた。ここにもキリストの愛があります。そのような愛だから万人を救えるのです。何もかも見通しておられる。イエス様の前では何も言わずにうめくだけでもいいのです。言いたいことはわかっておられるのです。でも、できるなら、具体的に祈る方が良いのです。それは、イエス様のためではない。自分のためです。イエス様は祈る人を愛して見ておられる。

そのイエス様の愛のまなざしのゆえに弟子たちは立ち直れた。惨めな死をも恐れぬ真の強者としてイエス様の弟子たちは生まれ変わったのです。そこがわからないとキリスト教はわからない。花と散るより十字架を背負って、あの十字架の山を登る道を選ぶ真の強者として、生まれ変われない。復活とは単に生まれ変わるだけではないのです。真に強く生まれ変われます。

 また、今も十字架にかかられた姿でイエス様は私たちを愛しておられます。それは、今の私たちの惨めさや苦しみを知っておられるからです。その私たちを救うために十字架の惨めな姿を私たちに見せてくださるのです。惨めな私たちのために、ご自分を身代わりとして差し出して私たちを救うために。そのことを信じれば救われるのです。

キリスト教は、わかるのが最も難しく、救われるのが最も容易だと言われる所以です。

それで、クリスチャンは祈るとき、十字架にかかられているイエス様を思い浮かべながら祈るのです。すると、自分を苦しめているものが自分の中から抜け出していくのをクリスチャンは知ります。罪を犯さない人はいない。不運や不幸に遭わない人はいない。

その苦しみを背負われて、見捨てず共に行かれ、私たちが犯した罪の身代わりとなって救われるのがイエス・キリストの愛です。

 この愛は、人は罪を犯すものですから、不運や不幸は誰にでも来るものですから、終わりません。この愛がなければ、人は立ち直ることができないから、この愛に終わりはありません。

また、偽善という罪は真にたちが悪いものです。偽善は真実を見えないようにします。

賢く金儲けなどをする日本人の多くは、偽善者であって、人を奴隷のように扱っていても、奴隷という言葉を使いません。この偽善という罪は、幾世代にもわたり、日本では続けられているので、日本人の中には自分が奴隷扱いを受けていることに気が付かない人が多い。そのことを気が付かせてくれるのが福音書です。新約聖書にある福音書で、イエス様が最も憎まれた罪が偽善であるのは、偽善は目に見えないウィルスのような存在だからです。いつの間にか、人を罪人にして人を不幸にしていく。福音書で盲人の話がよく出てくるのも、その辺も悟りなさい、ということです。

 古代から奴隷制度はありまして、信仰の父アブラハムに従っている人々の中に奴隷は多くいたのです。その一人がアブラハムの跡継ぎになる予定でした。ですから、奴隷と言っても待遇の良い奴隷たちが古代からいたのです。日本でもそうです。待遇がひどく悪いケースを日本人の多くは奴隷扱いを受けている言いますが、奴隷制度における奴隷扱いには待遇の良し悪しは関係ありません。待遇の良い奴隷でも奴隷は奴隷です。しかし、アブラハムの跡継ぎとなったのは自由の女サラの息子イサクであったことを忘れてはいけません。自由業にあこがれる人が何故多いのでしょうか。

モーセに率いられた民の中にも奴隷がいたと聖書は述べています。エジプトで奴隷扱いを受けていたから出エジプトであったのに、それでも、モーセに率いられた民の中に奴隷がいたことは律法の中に奴隷の取り扱いが明記されている事実からわかります。そのように古代から現代至るまで奴隷は存在しているのですが、そのことを日本の教育では教えません。社会秩序が乱れるという暗黙の掟が、深く日本に根差しているからです。

イエス・キリストの時代にも奴隷がいました。学校では奴隷が遠い存在であるかのような教えをすることがあります。これは、社会的な偽善です。なぜ、学校でいじめがあるのでしょうか。奴隷頭は奴隷がいないと頭になれない。奴隷制度を維持する方法の典型てなものがいじめです。仲間外れにすることで奴隷制度を維持しようとするのです。

反論があるでしょう。奴隷制度には良い点がある。社会秩序が保たれる、と。

しかし、過労死や自殺の多くは奴隷制度の持つ特徴が顕在化したものです。いくら巧妙に隠しても、その負の側面は、どこかで現れてくるものです。いじめもそうです。心の病の多くもそうなのです。奴隷扱いを受けている人は、心の病にかかりやすいのです。それが、体の病へと発展して行くことは珍しくないのです。しかも、その人だけの問題ではないのです。家族の中に心の病をもたらすのです。日本の中には目には見えない伝統的な奴隷制度のもたらす空気があります。その空気の中に含まれている目に見えないウィルスが様々な病気や不幸の原因となっているのです。

そのウィルスによる病気から救われる単純な方法があります。それは、十字架にかかられているイエス様を心に思い浮かべることです。そして、その十字架を見上げることです。すると、いつの間にか、自分の中にある病気が消え去って行くのです。イエス様がキリストとして自分の病を引き取ってくれているからです。身代わりの愛のゆえに救われて行くのです。苦しみや罪に苦しむのは世の常の事で避けられません。ただ、救われることはできます。それはイエス様の十字架を見上げることです。見上げることなら誰にもできます。救われるとは実に単純な信仰によります。頭がなまじよいと、この単純なことができないことがあります。イエス様はキリスト(救い主、救いの神、救世主)なので、誰にでもできることで誰でも救われます。

また、救われるとは奴隷から自由人になることも意味します。救われたと実感するときには奴隷などの持つ苦しみから解放されたような自由を実感します。

日本人の多くは気が付かないうちに奴隷にされて苦しんでいることが多いものです。

その苦しみを救おうと今もイエス様は十字架の惨めな姿を今もなお私たちに示していてくださいます。

 ヨハネ・ヤジロー