イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

十字架におけるイエスの愛、ヤジロー

 イエス・キリストの愛は、十字架の愛が一番です。

十字架の愛は、罪などに苦しむ人を救うために、罪の身代わりとして、身代わりの犠牲で、イエス様が十字架に架かられた愛です。これは、イエス様の祈りにある「御心がなりませ」という祈りと連動していて、キリスト(救世主、救い主)としての本来の願いつまり本願が成就のための愛、それが、イエス様の犠牲による十字架の愛です。

 「御心が地になるように」との願いが、イエス様の本願であることは間違いないのですが・・・つまり、浄土真宗には十字架が隠されているのです。十字架は隠さないと十字架に架けられるという恐怖が日本を支配していました。今は、その心配がない情報化社会に日本はなっています。隠れキリシタンとして十字架に架けられた日本人は、少なくとも戦後の日本ではいません。

 隠された十字架という言葉では、聖徳太子法隆寺の方が、哲学者の梅原猛により有名ですが。

 救いは悪人のためにあるのです。善人のためにありません。人は集団で生活をしている限り、罪を犯すものです。アダムが独りでいた時にはアダムは罪を犯しませんでしたから。

 アダムとは生物学で言う「最初の人間」ではありません。神様が、ご自分に似せて造られた人間として最初の人間です。つまり、神様を父とした最初の人間です。それで、アダムは神様の楽園(エデンの園)を神様から管理するように任されたのです。それで、そのときに戒めがアダムから与えられたのです。つまり、その戒めを守らないことが罪なのです。罪の始まりともいうのでしょうか。イブ(エバ)と一緒になってからアダムは蛇(サタン)にだまされたイブに誘われて罪を犯しました。

今でも似たようなことは、どこでもあります。

罪に対しての言い訳も、初めのときと似たような法則が働きます。

罪を犯すと汚れますので、汚れから清められる必要がある。清められるとは犯した罪が消え去ることですから、神様と楽園で顔と顔を合わせるように会えます。

心の清い人は神様と会えるのです。

 ここから先は、理屈ではありません。信仰の世界です。イエス様が十字架に架けられた姿を思い浮かべて祈るだけなのです。それだけで、清められるのです。たとえ、刑務所に入っていようと、前科何犯であろうと。人の世界は罪人を作ります。集団生活は、必ず罪を生みます。清められると楽園にいるようです。罪の汚れがなくなりますから。

 十字架の愛を信じるかどうかだけです。キリスト教における本願成就の方法は簡単です。イエス様の十字架をキリスト(救世主)による救いと信じるだけです。