イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

人の愛と神様の愛

  人の愛は人生経験を積んでいけば、それなりに知っていけます。でも、神様の愛は全てを知ることは無理です。人間のレベルでの比較でも存在期間が全く違います。人間は百歳も生きれば長寿です。でも、聖書で述べている神様は、人よりも前から存在しているから存在期間が人間から見れば永遠です。それで、人間である私が神様の愛を全て知ることは不可能。つまり、ほんの一部しか知っていない。その事実を前提にしないと何も書けない。神様の愛について。

 そのようなときでも、神様の愛と人の愛の共通部分は、少しは書けます。

共通部分は、神様の愛は、人間から見れば親の愛ではありますが、理想的な親の愛です。私も子供がいますが、子供たちは成人の年齢なのに、神様のように子供を愛してきたとは言えない。試行錯誤の愛です。間違った愛し方をしたことも多かった。その間違いに気づいては修正するという愛です。神様の愛に近づける努力の日々です。

また、神様の愛は人間を妻にたとえると夫の愛です。私には妻がいますが、これもまた試行錯誤の愛です。愛し方を間違えては修正する日々です。30年以上たった今もそうです。亡くなった私の親も私を愛してくれました。でも、人間の愛ですから、いつも正しく愛したわけではない。でも、私は父母の愛に満足しています。人間の愛には限界があるし、間違った愛し方もあることを自分自身の経験から学んで来ましたので、私は私の父母の愛に満足できるようになりました。もっと、積極的に言えます。私と父母との間に残ったものは愛だけです。父母が私を愛してくれたこと、それだけが、父母との間の楽しい思い出です。愛してくれた。それ以外のことは忘れてしまいました。

結局、最後に残るのは愛だけです。

ところが、神様は振り返ってみれば、いつも私を正しく愛してくれました。でも、その正しさに気づくのには、時間がかかることが多かった。最長のもので、現時点では50年ですか。神様が自分の望んでいること直ぐ今してくれなくても、それが正しいことであるということは、幸い、長く生きたので知ることができました。

その点、人間の親は早く結果を欲しがって間違った愛し方をすることがあります。

忍耐して信じる気持ちが必要です。神様に近い愛で愛したければ。短気はいけません。

短気を起こしては間違った愛し方をした経験がたくさんあります。

 また、これは言えると思います。自分の心や体にとことん正直になることです。そうすると修正点が見つけやすい。要するに、正直だと現実に起きている事実を認めることが容易になるのです。ただし、地球が太陽の周りをまわっている事実は、自分の力では認めることはできません。宗教改革者ルターでもそうでした。だから、一人の人間の正直には限界があります。回りから教えられて気が付くことも必要なときがあります。

 現実を認めるには正直さが必要です。最近の日本では、政府の統計に不正確さがあったと問題が起きています。データというものは、大量に取り、それも精度が高ければ高いほど統計処理をしたときに真実を語ってくれるものです。たとえば、そうでないと地動説には説得力がなかった。ケプラーの法則も発見されなかった。

楽して急いで取ったデータは、それほど正直に真実を語ってくれません。それどころか、データを少なく取る操作をすれば、偽りを語ることになりやすい。頭の良い人は偽りを言うために不正な統計操作をすることがあります。それには、時間がかかることがあります。それを人員削減と予算の削減の中でやったというのですから、日本の官僚は優秀です。でも、直ぐに身の周りの人からほめられるという結果を欲しがらなければ、嘘をつく労力は何もいりません。

小細工は信用という大切なものを失います。個人的な出世と私欲で小細工をしたのでしょうか。正直者はバカを見ることはありますが、人間として大切なものは得ます。信用です。いくら頭が良くても早く人から認められたい、早く高く評価されたいと思うと不正な統計操作に手を出しやすくなります。人間には、そのような悲しい所があります。

 どうせ、嘘はいつかばれる。天にはいつもばれている。

人から愛されることより天から愛されることを選ぶべきなのです。これができる人は真の勇者です。見かけはみすぼらしくても。イエス様は小さなロバに乗ってエルサレムに入場されました。立派な馬に乗ってこられなかった。真の勇気、真の愛を見ます。