イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

みじめさからの救い

 惨(みじ)めな経験は誰でもするものだけど、ある日、突然、死ぬときがやって来る。そして、惨めなままに死ぬことがある。

 大災害や戦争もそうだけど、交通事故に巻き込まれて一瞬のうちに予想もせずに死ぬこともある。しかも、年齢も赤ちゃんから高齢者まで様々だ。

パウロの書いた手紙の一つに中の第1コリント15章を読んでいると、人は惨めなままに死ぬことがあっても良いのだ、と思う。いや思うというよりは信じる、と言う方が正確だ。

今生きているときを現世というなら、死んだ後は来世だ。来世に生きることをクリスチャンは復活するという。

 キリスト教を知らない人の批判はイエス・キリストの十字架に集中する。あれほど、惨めな死はない、と。とても、あのような惨めな死をした人を神様、救い主(キリスト)と信じれるものかと。

 でも、復活があると信じることができれば、そんな批判は吹き飛ぶ。十字架にかけた連中のほうが恐れおののくべきだから。実際、イエス様を十字架にかけるための主犯格はユダヤの上層階級の宮様派(サドカイ派)だ。サドカイ派は来世の復活を信じない。エルサレムのお宮(神殿)の祭司階級の上層階級を中心としている。

人は上に行けば行くほど、下に行けば行くほど、無法者になりやすいとか言う人がいたけれど、そのような両者がイエス様を十字架に付けた。

彼らは現世第1主義者で来世を考えることはない。それよりは、今、飲み食いして楽しむことを優先する。そのような人から見れば、信仰のあるクリスチャンは惨めな者たちの集まりにしか過ぎないだろう。

 つまり、惨めさからの救いは、イエス様の復活を信じるかどうかだけなのだ。

クリスチャンの信仰は実に単純なのだ。イエス様が十字架にかけられた後に復活されたことを信じるものがクリスチャンなのだ。教会に籍があるクリスチャンと言う意味ではないよ。復活を信じない教会のメンバーもいるという事実は今も昔も変わらない。

 聖パウロの手紙は、本質的に、今も昔もクリスチャンには復活を信じる者のいれば信じない者もいるという事実を述べている。第1コリント15章にあるように。

 ただし、今もこれからも幸せに生きたいと願うなら、イエス様の復活を信じることだ。後は、イエス様に任せての復活だから。このことは、人間の頭で考えてもわかるものではないよ。狂人になって哲学を述べた所で、見かけの理論は現実を鋭く分析しているように見せても、行き着く先は、そう、生きているときは天才扱いされても、百年もたてば、惨めな狂人扱いだ。生きているときは巨人扱いを受けても。

しかし、人の評価は時代の空気を反映する。その時代が狂っていれば、狂人が評価される。百年たたなければ、正確な評価というのは難しいと言われている。

ヒトラーを見よ。しかし、今だけを考えていると狂人を天才だと勘違いするだろう。

 イエス様の十字架を仰ぎ見れば、本当の天才と狂人の違いが見えて来る。

今の今、評価されたいと思っていたら、狂人のお芝居を天才の言動と勘違いする。

芸人で覚せい剤とか麻薬を使う人がいる。それは、芸は天才同様に上手にできるだろうけど、副作用という支払いが待っている。狂人になる支払いだ。

 それに、とにかく、本物と偽物の見分けは「時代の空気という物差し」のために見間違えやすい。イエス様を十字架に付けた後にユダヤ人の国は速やかに消滅していく。

当時のユダヤ人の現人神思想、現世でのご利益第一主義の行きつく先は亡国であった。極地の惨めさの方が真理であった。真実だった。これは、人の実力などたかが知れているということだ。

エス様の十字架を思い、復活を信じる方が、今は惨めでも、救いがある。

生きているときが全て惨めであっても救いがある。ラザロのように生きても復活があるかぎり惨めさからの救いがある。

 イエス様の十字架を仰ぎ見て、死後の復活を信じる。これができるようになると、不平や不満が消えて行く。感謝できないことばかりでも平安があり生きていける。