イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

不敬罪な祈り?

  不敬罪を犯している事実の確認は誰がするのだろうか。

犯している本人よりも第3者だ。日本語の使い方が不適切な不敬罪は、国語の辞書を引いただけで簡単に判断できる場合がある。

 すると、日本の教会で、一部ではあるが、日曜日ごとに不敬罪な祈りが発せられている場合があるのではないか、と思う人々がいる事実がある。

信じている神様にこう祈る人々がいると。

『国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり』と主の祈りとは今では学問的には認められていない言葉を最後に追加して祈るという。

この「なんじ」は、自分たちが信じている神様をさす。国語の辞書を引けば、対等もしくは目下の者に使う言葉が「なんじ」である。特に「目下の者」に使われる。この言葉は百年以上の前から使われているらしい。99%がクリスチャンでない日本。これは少なくとも99%の日本人のうち宗教心のある人から見れば宗教的に不敬罪である。

しかし、クリスチャンでない人々は、このことで行動を起こすことはないだろう。

キリスト教会に足を運ばないという行動以外に。このように距離を持たれることを恐れて、「汝」ではなく「あなた」と言い替えている教会もある。

伝統だと声を上げる人がいる。しかし、99%の日本人がどう見ているかと自省をする必要がある。今まで行ってきたことを否定するのには、何よりも真の勇気がいる。

しかし、この勇気こそが天から最も称賛される勇気ではないか。

 このように不敬と外部から思われる祈りをしている教会の多くは人が減っている傾向にあると聞く。

クリスチャンでない99%の日本人から見れば何も不思議はない。神様の目から見ても、そうではないかと心配する。日本語の使い方は少数派が決めない。多数派が決めるのだ。それで、公用される聖書では、この箇所は本文から削除されている。

 つまり、戦後出された聖書は、この部分の「主の祈り」が削除されている。もともと、イエス様が、こう祈りなさい、と言われた「主の祈り」になかった言葉だと学問的にも確認されたからだ。しかし、日曜日の礼拝でいまだに祈る教会がある。これは宗教的には不敬である。「なんじ」という言葉は。それで、「あなた」という言葉に少なくとも置き換えるべきである。最もわかりやすいのは、主の祈りではない部分は削除することだ。頌栄として使うことはできるだろうが、「なんじ」は「あなた」に置き換えて使うべきである。

エス様が祈りなさいと言われた言葉「主の祈り」と頌栄とは区別した方が良い。

また、99%がクリスチャンでない日本では、この頌栄は避ける方が政治的には賢明である。政治的に穏健な人々、保守派の人々の足が運びやすくなるからだ。下克上を好む革命的な左派との誤解を受けることがなくなる。羊の衣を着た狼の教会という誤解を受けることがなくなる。多くの日本人の中身は羊である。羊は狼を本能的に恐れる。

 主の祈りをイエス様の言われた部分だけにして祈り、教会に足を運ぶ人の数が増えるかどうかを見てみよう。神様の恵みがあるかどうか見てみよう。神様が生きておられるなら数が増えると確信する。

 さて、日本の教会の多くで使われている2種類の公用の聖書が新訳で最近出された。

新改訳は2017年、共同訳は2018年、不敬の観点から言えば、新改訳2017を採用すべきである。日曜日の教会の礼拝において。

 理由はシンプル。ヨハネ福音書の最初を読もう。ヨハネ1章29節にあるヨハネの言葉「見よ、余の罪を取り除く神の子羊」である。この子羊は、キリストの別の表現。この表現により、不敬の罪は取り除かれた。

それは、それ以外の主な聖書はこの「神の子羊」を「神の小羊」と表現していたからだ。子羊の子は敬称としても使われる子であるので、日本人から見れば、当然の使い方。ところが小羊と書けば「こひつじ」と読んでも、小さな羊なのか子供の羊なのかわからない。しかも、この小は、人を軽んじたりするときにも使われる。つまり、子羊と書かなければ不敬罪である。大きな羊は美という言葉を作る。

 旧約聖書でもしかり。ヘブライ語の音訳においては神聖4文字を誤って公の場で声に出さないようにと新改訳2017では「アドナイ」と音訳している。諱(いみな)は不敬とならないように別の言葉に置き換えるもので、その置き換えられた言葉は「アドナイ」、直接の意味は「主」。主の祈りの主である。

 これらのことは、新改訳2017が教会で声を出して読まれることを意識されたものだということを証明している。

 また、新改訳2017は、比較的、聖書の原語に忠実に訳してあるだけではなく、聞いてわかりやすい表現を用いている。聞いてわかりやすいことが、教会の礼拝で求められているからだ。教会に来るのは教会だけで通じる言葉を理解する人だけではなく、教会外の人々、また、子供たちも来るのだ。それに、日本語の使われ方も何十年もたてば微妙に変化するのは、英語などの国際語でもそうだが、避けられない。そこへの配慮が、新改訳2017でも当然のこととして存在する。当然のことを行うことが、最も尊く大変なことであることは歴史が証明している。それは、 当然のことが行われること、それが神様が求められている正義であるからだ。

 その正義が聖書「新改訳2017」にはある。

 また、キリスト教は万人のためにある。政治的に右であろうが左であろうが無関心であろうが関係はない。特定の人のためにない。その御心が地においてもなるように頌栄には、配慮が、日本では特にいる。多くの人が教会に来れるようにする配慮である。

 日本で、新改訳2017が多くの教会で用いられることを父と子と聖霊のみ名により祈ります。