イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

異端

 宗教で異端という言葉は、幅広く使われる。

 誰でも異端と思うのは、詐欺師が頭にいる宗教、宗派、教団、教会である。

キリスト教で、ややこしいのは、神父や牧師が詐欺師の場合。この場合は、特定の教会を指すので、そこの宗派が異端とはならないからだ。しかし、そこの教会は、実質的に異端なので、そこの教会に行かない方が安全である。また、信者の中に詐欺グループがいる場合も、そこの教会に行かない方が安全である。

 詐欺師の誰もが、狼の顔をしていない。羊の顔をしているからややこしい。

例えば、殺人をした人々の顔は、多くの場合、どこにでもいそうな人の顔をしてはいないだろうか。テレビや雑誌に見る殺人犯の顔で鬼のような顔をしている人を見ることは少ないものだ。そう、偽教師、偽信者は見分けるのは難しい。被害にあえば、見分けることはできてくる。

 経験的には、八方美人タイプは近寄らないがよい。目立つ身なりの人も危険だ。

卑屈とも思える謙虚さを示す人も危険だ。それは、羊の衣を着ている確率が高い。

このように確率論的に述べるしかないのだが、本物と偽物の区別は難しい。

小さな嘘を自然に息をしているかの如くつける人には近寄らないが良い。最も、相手の方から来るだろうが、距離を置くことが必要だ。場合によっては、その人がいる教会に行かないことだ。もしくは、食えない人間になることだ。しかし、異端扱い受けやすいので、いやかも知れないが、詐欺師から悪口や中傷を受ける異端扱いは喜ぶべきことだとイエス様はおっしゃってくださっているので、勇気をもって、孤独になることも必要だ。気を付けないと詐欺師から大損させられたばかりか奴隷にされる。それよりも、異端扱いされて孤独になった方がまだましだ。本当のキリスト教は人を自由にする。

偽物が頭にいる教会では、人を奴隷にして食い物にするので、異端といえる。

 また、最悪なのことは、人は過ちを犯す肉体を持っていることだ。禁じられたことをやりたがるものだ。つまり、善人でも悪を行うことがある。それが、人生の悲しみの原因となっている。性的な過ちも含めて、広範囲な意味で、食べてはいけないものを人は食べてみたくなり、そう実行することが、アダムとイブの時代から肉体を持つ者の宿命となっている。つまり、罪を犯さない人はいない。

 罪を犯すことは避けられないかも知れないが、ウソをついて、人に罪を犯させてはならない。ウソつきの友人は悪魔だ。しかも、この友人は最後には裏切る。それが、悪魔という名の友人のすることだ。目の暗い人には気を付けることだ。目の暗い被害者の場合もあるから、ややこしいが、それでも、同じ被害者とならないために気を付けるべきだろう。

 つまり、人間不信になるのが人生だ。だがそれで、人は人間よりも神様を信じるようになる。人は信じるものではない。神様こそ信じるものだ。しかし、神様の代理人が、人である場合には、本物か偽物かの事実確認はクールに丁寧に行うべきだ。すると、被害にあっても、その被害は小さく、人生のレッスン料を払った程度で済み、致命傷とはならない。

 さてと、キリスト教で異端と言う場合は、三位一体以外の神様を信じている場合を異端と言う。イエス様の十字架による贖いから来る救いは、キリスト教では当然なので、十字架を否定している場合も異端だろうが、キリスト教とは別の宗教として扱うべきだろう。

 また、イスラム教は三位一体を否定している。父と聖霊を一体の神様としている。イエス様は使徒または予言者であり、イスラム教では神様ではない。

ユダヤ教イスラム教と同様に三位一体を否定している。それで、キリスト教とは別の宗教である。同じ一神教ではあるが。

 また、日本では、三位一体の話が話題にならないのは、多神教ではあるが、三位一体のような感覚を持つ日本人が多いせいであろうか。

 とにもかくにも、一神教の中では、日本で受け入れられやすいのは、キリスト教と思います。それと、異端という言葉を一人歩きさせて、差別やいじめなどの目的に使う人間は人でなしだ。人間ではない。それよりも、自分のことを「ろくでなし」とへりくだる人間の方が救われやすい。