イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

聖書の限界

 クリスチャンの一部にある「聖書中心主義」には限界があります。

聖書に限界があるからです。聖書の記述に関する人間の持つ表現能力に限界があるからです。

クリスチャンでもプロテスタント系の人たちは聖書中心主義の人が多い。

 聖書中心主義の限界は、聖書を神様よりも上に置くことが不可能なことから来ます。

 神様が一番上なことは永遠に変わりがない。当たり前の現実です。

 祈りもそうです。神様に祈っても、答えてくださる方は神様ですので、人間が期待している答えがいつも返って来る保証は何もない。祈った人間が拒否する答えの場合は、神様は答えてくださらない場合が多い。

それほどまでに、神様に祈る人間の方のレベルが低いのです。

そのレベルの低さを自覚していないと「神様はいない」という言葉を人間は口にしやすい。

 そんな無神論よりも、もっと恐いのは、自分の感情や考えにこだわって祈っていますと、神様の声をまねたサタン(悪魔)の声を祈りのときに聞くことがあります。

これが本当に怖い。無神論の方がまだましの結果になります。ニセ牧師なども含めて、詐欺師にだまされます。実害があります。私自身、痛い目にあった経験が人生において複数回あります。

 祈っても、神様からの答えが返ってこない場合は、自分自身の祈りの内容に問題がある場合が多いものです。実際、何十年も神様から「ある願い」がかなえられないことがありました。長きにわたり、祈りましたが。でも、今は、かなえられないで良かった、と思っています。それは、自分自身も含めて家族のためでした。

 祈りがかなえられないことが、現実の幸福となる場合があるのですから、人間の思いには限界があります。

どこか、客観的に自分自身を見つめて、周りも、相手も客観的に見つめて祈れるときは答えが神様から返ってくることが多いものです。自分自身の無知や無力を具体的に知っていることは、客観的に自分自身を見つめるレベルを上げます。

 そこで、最初のテーマ「聖書の限界」に戻ります。専門書ではないので、大ざっぱに書きますが、2千年以上前の人間が実際に書いたのが聖書なのです。確かに、神様から霊感を受けた書いたのですが、その霊感は聖書を書いた記者が霊感を神様から受けたものなのです。つまり、霊感を受ける側は人間なのです。神様ではないのです。

 それに、2千年以上前の人間の言葉で、人間が聖書を記したのです。つまり、人間の言葉の限界やその当時の人間の知識の限界が、(今もそうですが)聖書の記述に限界をもたらしているのです。

それで、聖書の記述は、各々のテーマに絞った比喩的な表現やたとえ話のような記述になりやすい。

 とてもじゃないけれど、現代の自然科学的な記述など不可能な低い記述レベルで、当時の聖書を記述する人たちは書いているのです。

 また、今の自然科学も大いに限界があります。その限界を知るものが世界で最高峰の自然科学者たちです。限界を知るからこそ、研究活動があります。永遠に続くのです。そのくらい、人間には無知の世界が無限にあることを最先端の学者たちは知っています。それで、理系のクリスチャンの方に謙虚な人が多いように思えます。無知の自覚がないと大言壮語できるものです。聖書の解釈も糸の切れたタコのようになります。

 それで、聖書の限界を知る人こそ、聖書を正しく読めることでしょう。

たとえば、1日という時間です。聖書においては、自然科学で定める1日という時間と一致しない場合もあります。1日24時間というのを自然科学の物差しと見ての話ですが、聖書記述者たちは、1日を24時間と見て書いていないこともあります。1日24時間という物差しで書いているときもありますが。

近代の自然科学が証明しているように1日24時間という物差しどおりに天体が動いているわけではない事実確認にも答え、かつ、シンプルさが要求されるのが、聖書の記述です。

 それで、創造の初めのとき、1日24時間で暗闇に光が生じたでしょうか。いまだ、どのくらいの時間を要したかは、人間の誰も真実の答えを出していません。

 そういうわけで、聖書を記述した人間は、自分の使える言葉の範囲で1日と記すしかなかった。つまり、人間の方に限界があるのです。そうです、神様に対して人間は謙虚でなくてはいけません。自分の無知や無力な範囲がいかに無限の広がりを持つかを意識したとき、聖書の限界、人間の記述限界を知ります。

 無限の時間、無限の力という概念は、神様に属するものですから、進化論はその無限の中では一瞬の進化を論じているにしか、過ぎないのです。膨大な時間と膨大な作業の過程を当時の聖書記述者はできたでしょうか。できない。それどころか、簡潔に単純に述べることが要求された。子育てや家事に忙しい女性たちからそっぽを向かれます。

また、我々、人間一人の生活空間は、狭い井戸の中の水にいるカエルようなものです。

それで、無限の広がりや深さを論じるには限界があります。そこに聖書の限界があります。正確には聖書の記述をする人間の実際の限界があります。

限界を知っていない聖書中心主義は他の諸々の教会を見当違いの批判をすることになります。

 それで、天国に行くには、イエス様が祝福される「自分の無知無力を知る心の貧しい人」を意識することが大切になります。