異端と寛容
異端に寛容なのはクリスチャンで異端に厳しいのは教会という不思議な現実があります。
イエス・キリストの愛には、寛容が第一番目に上げられます。
イエス様をモーセやムハンマドと同列の予言者にすれば、イスラム教になります。
クリスチャンが聖書の中で良く読む箇所は、福音書、モーセ5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)、詩編です。これらはイスラム教では聖典です。
これらをベースにしたような聖典に思えるのが、イスラム教の第一の聖典コーランです。コーランも和訳されたものがあります。
しかし、コーランは三位一体を否定します。イエス様を予言者と見るからです。ユダヤ教もイエス様を予言者と見ます。
つまり、宗教におおらかな日本人から見れば、ユダヤ教もイスラム教もキリスト教も同じ宗教に思えます。これらの三宗教の総和は世界の過半数を優に超えます。
さらにキリスト教の中で三位一体を教義としない宗派は異端です。
父と子と聖霊を別の存在とすれば三位一体でないので異端です。
仏像が三つ並んだ形をどう見られますか。
多神教の感覚は三位一体から見れば異端なのです。
イスラム教の中でも宗派間の争いが、深刻になりますと日本ではガソリンの料金などが上がります。
寛容な愛をお持ちのイエス様は、異端を存在させておられます。
偽善は最悪ですが、異端は最悪なのでしょうか。しかし、異端問題で多くの人の血が流され、差別が今もあります。イエス様は異端も愛されています。ユダヤ教もイスラム教も存在しています。
異端という言葉には差別という愛と反対の感情を感じます。派閥争いよりも深刻な状況をつくりやすい言葉と思います。
イエス様は異端も愛されているので、今もなお、異端を存在させておられるのではないでしょうか。イエス様が創造主と同じ方であるなら、三位一体が真理であるなら、イエス様は異端を愛されていると思います。キリスト教で寛容が最も大切な愛なのですから。