完全な愛
ヨハネ・ヤジロー
完全な愛というものが存在するなら、それは、イエスの愛だろう。人の愛というのは未熟ではないかと思う。自分自身も、その未熟な一人と実感することがよくある。
そう、父親として息子や娘に何かを言うと「お父さん、説教やめて」とか「おせっかいはやめて」と言われる。妻も似たようなものだ。育児の主体は女性ではないかと思う。
何か言うのにも時があると悟る。そのときを悟らぬ自分にも非がある。愛するとは時を待つこと、つまり、辛抱をすることなのかもしれない。頼まれもしないことは、やってもお互いに幸せになれない。
ふと、イエス様の言葉を思い出す。
「友を愛し敵を憎めと言われており、聞いたことはあるでしょう。(友は隣人とも訳されています。)
だけど、私は言います。あなた方に。敵を愛しなさい。あなた方をいじめたり、苦しめたりする人のために祈りなさい。
それは、天にましますあなた方の父の子となるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正義の人にも不正の人にも雨を恵まれるでしょう。
愛してくれる人を愛して何の報いがありますか。あの税金取りでもしているでしょう。
仲間や同胞、兄弟だけに挨拶をする。何も勝ったことをしていませんよ。異邦人、異教徒でもそうしていないですか。
だから、あなた方は完全でありなさい。あなた方の父が完全であられるように。」
(マタイによる福音書5章43~48節)
天を支配しておられる神様、天父は万物を創造された。当然、人間も創造された。
それで、善人であろうが悪人であろうが人間は可愛い。
愛するとはどういうことか。永遠の問いを妻子のおかげで問い続ける。