イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

偽善者の正体

 イエス・キリストが最も嫌われたのは、不信仰の人ではない。不信仰の人は偽善者によりつくられることもあるので、最も質の悪いのは偽善者である。

 不信仰の人は偽善者による被害者である場合がよくあるのだから、不信仰の人には救いがある。信仰心を持たないのには、それなりの過去があるものだから、不信仰と言うだけで、その人を裁くことはできない。

 それでは、偽善者とは何か。仮面劇の役者のような者で、本物のふりをする偽物の信者である。多くの人の前で説教したり歌を歌うことなどが好きな人々にも見られる。

上座に座ることを好む。そうかといって、それに該当する人々の中に本物もいるので、自分の中に有る妬みなどの感情を捨てて、本物か偽物か見分ける慎重さが必要だ。

 多くの場合は、長い年月をかけて見た方が確実に見分けられる。本物は良い結果をもたらす。偽物は悪い結果をもたらす。例えば、ヒトラーは救世主のように見せかけて、やることは悪魔だった。そのように、偽善者を見分けるのには時間がかかる。

 原典のギリシャ語聖書の原語から推測できるように、偽善者とは仮面をかぶった役者のような者。別の表現をするなら偽(にせ)信者だ。偽信者は、神様も信者もうまくだませていると信じている者だ。おまけに、自分自身もだましている。非常に恐ろしい心の病を持つ者だ。生きながら地獄の火を味わう者となる。その中には、自殺をする者もいるだろう。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダのように。偽信者の別の表現は、うそつき。ウソには用心しましょう。自分にウソをついてはいけません。ウソはウソをつくります。正直に自分を見つめれば見つめるほどウソは発見できます。アルツハイマーやガンの予防にもなります。心にストレスをかかえれば肉体は容易に病気になる。

 また、「もはやこれまで」と自殺するよりも、みんなのために、ウソをついていたらみんなの前でウソをついていましたと告白しましょう。清くなるとは自分の中のウソを捨てることは大切なことです。真実を見つめ認めるには本当の勇気です。

 臆病な人は恐ろしい過ちをウソをつきながら犯しやすい。ウソはいけません。

 

 

うつ病

うつ病にならないために何をすべきか・・・シンプルですけど、イエス様の言葉(福音書・・・新約聖書の最初の4書)を読むことはおすすめできます。

エス様の言葉だけピックアップして最初から読み続けると絶対にうつの状態から回復できる言葉に出会います。

 それから、自分の内面を見つめて、うつから回復したいと思うなら、創世記(旧約聖書の初めの書)は、お勧めです。

 人間には、自分の力では制御のしようのない心や体の欲求があります。

 この欲求は、現実ですから、妄想と区別して良いのです。妄想と軽く片付けていると「うつ」になります。ほっとおくと、自分が病気になるのは自業自得ですが、他人や社会の迷惑になることをします。塀の中に入ることになるかもしれません。

 例えば、アダムとイブ(エバ)の話・・・これは、現実の自分自身の心の動きをおとぎ話風に話されているだけなのです。現実といいますか、真実に気が付くと「うつ」の原因がわかります。

 手っ取り早いのは、イエス様の言葉を片っ端から読んでいくと、必ず、うつから解放される言葉を発見できます。

 精神病院に行くより、本屋さんに行って聖書を買って読むことです。

コストパーフォーマンスがとても良い。

 

罪とは何か

 罪とは何か、と日曜日の聖書セミナーでの会合で考えさせられました。

学生時代にクリスチャンになった人は、欧米の罪の概念を素直に受け取っている人が多い。でも、日本人として生きて来て、クリスチャンになるのが遅かった人は、仏教用語の方が理解しやすい。

 罪の意味をとにかく広くとらえます。すると、一番、ひどく深刻な結果になりやすい罪は、すべてウソに起因するか、ウソがからむものだ。

 コントロールが難しいのが「欲」だ。食欲、性欲、名誉欲、あらゆる貪欲は、コントロールが難しい。これらの欲を仮に肉欲と呼ぶと我々人間の失敗(罪)は肉欲のコントロールの失敗によることが多い。人は肉体を持つので、24時間、肉欲から来る誘惑にさらされている。

「肉欲に負けた結果」を「罪を犯したという結果」だという表現はわかりやすい。つまり、肉体を持っている限り、罪を人は犯すものだ。それで、肉欲のレベルが低いときに自分で自分の肉欲に気が付くことが必要だ。そうすると、刑務所の塀の中に入らなくて済む。民事訴訟など裁判に関係しなくても済む。また、病院に行かなくても済む。いや、病院に自分の足で一人でも行けるレベルなら普通の人か。

 でも、それでも、難しい。罪とは何かという問いに答えるのは。

神様と人間の関係で見た方がわかりやすい。神様の教え、諭し、戒めを知っていて守らないことを罪と定義した方がわかりやすい。

 アダムとイブ(エバ)は、神様の戒めを蛇のウソが起因して破ることになる。

ウソは本当に恐い。何もかも失ってしまう危険がある。

 

 

 

罪とは何か

 罪とは何か、と日曜日の聖書セミナーでの会合で考えさせられました。

学生時代にクリスチャンになった人は、欧米の罪の概念を素直に受け取っている人が多い。でも、日本人として生きて来て、クリスチャンになるのが遅かった人は、仏教用語の方が理解しやすい。

 罪の意味をとにかく広くとらえます。すると、一番、ひどく深刻な結果になりやすい罪は、すべてウソに起因するか、ウソがからむものだ。

 コントロールが難しいのが「欲」だ。食欲、性欲、名誉欲、あらゆる貪欲は、コントロールが難しい。これらの欲を仮に肉欲と呼ぶと我々人間の失敗(罪)は肉欲のコントロールの失敗によることが多い。人は肉体を持つので、24時間、肉欲から来る誘惑にさらされている。

「肉欲に負けた結果」を「罪を犯したという結果」だという表現はわかりやすい。つまり、肉体を持っている限り、罪を人は犯すものだ。それで、肉欲のレベルが低いときに自分で自分の肉欲に気が付くことが必要だ。そうすると、刑務所の塀の中に入らなくて済む。民事訴訟など裁判に関係しなくても済む。また、病院に行かなくても済む。いや、病院に自分の足で一人でも行けるレベルなら普通の人か。

 でも、それでも、難しい。罪とは何かという問いに答えるのは。

神様と人間の関係で見た方がわかりやすい。神様の教え、諭し、戒めを知っていて守らないことを罪と定義した方がわかりやすい。

 アダムとイブ(エバ)は、神様の戒めを蛇のウソが起因して破ることになる。

ウソは本当に恐い。何もかも失ってしまう危険がある。

 

 

 

神様と悪魔の違い

 神様と悪魔の違いは、現実の生活や仕事の中で見抜くことは難しいものです。

それで、聖書によく書かれてある言葉がキーワードになります。

それは、神様は真理である、真実である、という言葉。

そして、悪魔は偽りの父であるという言葉。

つまり、神様は本物で悪魔は偽物だ、ということです。

アイドルという音訳を日本語らしく訳しますと偶像です。

偶像は偶像です。本物ではありません。

詐欺師も本物ではないでしょう。

 神様は見えない、とよく聖書に書かれてあります。同様に悪魔も見えないものです。

それで、見えないものを見るのが大切なことになります。

しかし、見えないときがあります。しかし、前に進まなくてはいけないときがあります。それで、人は信じて前に進みます。そのとき、人は祈ります。

心に答えが来るときがあります。答えが来ないときもありますが、答えが来たとき、その答えは本物か偽物かのどちらかです。

 そのとき、人の心が本物よりも偽物が好き、目に見えるアイドルが好きな時は、偽物の答えを受けるものです。

 それで、現実には偽物にだまされることが人生の中においてよくおきるものです。

それでも、真理や真実を愛していれば、本物に出会えます。

 

異端と寛容

  異端に寛容なのはクリスチャンで異端に厳しいのは教会という不思議な現実があります。

イエス・キリストの愛には、寛容が第一番目に上げられます。

エス様をモーセムハンマドと同列の予言者にすれば、イスラム教になります。

クリスチャンが聖書の中で良く読む箇所は、福音書モーセ5書(創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記)、詩編です。これらはイスラム教では聖典です。

これらをベースにしたような聖典に思えるのが、イスラム教の第一の聖典コーランです。コーランも和訳されたものがあります。

 しかし、コーランは三位一体を否定します。イエス様を予言者と見るからです。ユダヤ教もイエス様を予言者と見ます。

 つまり、宗教におおらかな日本人から見れば、ユダヤ教イスラム教もキリスト教も同じ宗教に思えます。これらの三宗教の総和は世界の過半数を優に超えます。

さらにキリスト教の中で三位一体を教義としない宗派は異端です。

父と子と聖霊を別の存在とすれば三位一体でないので異端です。

仏像が三つ並んだ形をどう見られますか。

 多神教の感覚は三位一体から見れば異端なのです。

 イスラム教の中でも宗派間の争いが、深刻になりますと日本ではガソリンの料金などが上がります。

 寛容な愛をお持ちのイエス様は、異端を存在させておられます。

偽善は最悪ですが、異端は最悪なのでしょうか。しかし、異端問題で多くの人の血が流され、差別が今もあります。イエス様は異端も愛されています。ユダヤ教イスラム教も存在しています。

 異端という言葉には差別という愛と反対の感情を感じます。派閥争いよりも深刻な状況をつくりやすい言葉と思います。

 イエス様は異端も愛されているので、今もなお、異端を存在させておられるのではないでしょうか。イエス様が創造主と同じ方であるなら、三位一体が真理であるなら、イエス様は異端を愛されていると思います。キリスト教で寛容が最も大切な愛なのですから。

聖書の限界

 クリスチャンの一部にある「聖書中心主義」には限界があります。

聖書に限界があるからです。聖書の記述に関する人間の持つ表現能力に限界があるからです。

クリスチャンでもプロテスタント系の人たちは聖書中心主義の人が多い。

 聖書中心主義の限界は、聖書を神様よりも上に置くことが不可能なことから来ます。

 神様が一番上なことは永遠に変わりがない。当たり前の現実です。

 祈りもそうです。神様に祈っても、答えてくださる方は神様ですので、人間が期待している答えがいつも返って来る保証は何もない。祈った人間が拒否する答えの場合は、神様は答えてくださらない場合が多い。

それほどまでに、神様に祈る人間の方のレベルが低いのです。

そのレベルの低さを自覚していないと「神様はいない」という言葉を人間は口にしやすい。

 そんな無神論よりも、もっと恐いのは、自分の感情や考えにこだわって祈っていますと、神様の声をまねたサタン(悪魔)の声を祈りのときに聞くことがあります。

これが本当に怖い。無神論の方がまだましの結果になります。ニセ牧師なども含めて、詐欺師にだまされます。実害があります。私自身、痛い目にあった経験が人生において複数回あります。

 祈っても、神様からの答えが返ってこない場合は、自分自身の祈りの内容に問題がある場合が多いものです。実際、何十年も神様から「ある願い」がかなえられないことがありました。長きにわたり、祈りましたが。でも、今は、かなえられないで良かった、と思っています。それは、自分自身も含めて家族のためでした。

 祈りがかなえられないことが、現実の幸福となる場合があるのですから、人間の思いには限界があります。

どこか、客観的に自分自身を見つめて、周りも、相手も客観的に見つめて祈れるときは答えが神様から返ってくることが多いものです。自分自身の無知や無力を具体的に知っていることは、客観的に自分自身を見つめるレベルを上げます。

 そこで、最初のテーマ「聖書の限界」に戻ります。専門書ではないので、大ざっぱに書きますが、2千年以上前の人間が実際に書いたのが聖書なのです。確かに、神様から霊感を受けた書いたのですが、その霊感は聖書を書いた記者が霊感を神様から受けたものなのです。つまり、霊感を受ける側は人間なのです。神様ではないのです。

 それに、2千年以上前の人間の言葉で、人間が聖書を記したのです。つまり、人間の言葉の限界やその当時の人間の知識の限界が、(今もそうですが)聖書の記述に限界をもたらしているのです。

それで、聖書の記述は、各々のテーマに絞った比喩的な表現やたとえ話のような記述になりやすい。

 とてもじゃないけれど、現代の自然科学的な記述など不可能な低い記述レベルで、当時の聖書を記述する人たちは書いているのです。

 また、今の自然科学も大いに限界があります。その限界を知るものが世界で最高峰の自然科学者たちです。限界を知るからこそ、研究活動があります。永遠に続くのです。そのくらい、人間には無知の世界が無限にあることを最先端の学者たちは知っています。それで、理系のクリスチャンの方に謙虚な人が多いように思えます。無知の自覚がないと大言壮語できるものです。聖書の解釈も糸の切れたタコのようになります。

 それで、聖書の限界を知る人こそ、聖書を正しく読めることでしょう。

たとえば、1日という時間です。聖書においては、自然科学で定める1日という時間と一致しない場合もあります。1日24時間というのを自然科学の物差しと見ての話ですが、聖書記述者たちは、1日を24時間と見て書いていないこともあります。1日24時間という物差しで書いているときもありますが。

近代の自然科学が証明しているように1日24時間という物差しどおりに天体が動いているわけではない事実確認にも答え、かつ、シンプルさが要求されるのが、聖書の記述です。

 それで、創造の初めのとき、1日24時間で暗闇に光が生じたでしょうか。いまだ、どのくらいの時間を要したかは、人間の誰も真実の答えを出していません。

 そういうわけで、聖書を記述した人間は、自分の使える言葉の範囲で1日と記すしかなかった。つまり、人間の方に限界があるのです。そうです、神様に対して人間は謙虚でなくてはいけません。自分の無知や無力な範囲がいかに無限の広がりを持つかを意識したとき、聖書の限界、人間の記述限界を知ります。

 無限の時間、無限の力という概念は、神様に属するものですから、進化論はその無限の中では一瞬の進化を論じているにしか、過ぎないのです。膨大な時間と膨大な作業の過程を当時の聖書記述者はできたでしょうか。できない。それどころか、簡潔に単純に述べることが要求された。子育てや家事に忙しい女性たちからそっぽを向かれます。

また、我々、人間一人の生活空間は、狭い井戸の中の水にいるカエルようなものです。

それで、無限の広がりや深さを論じるには限界があります。そこに聖書の限界があります。正確には聖書の記述をする人間の実際の限界があります。

限界を知っていない聖書中心主義は他の諸々の教会を見当違いの批判をすることになります。

 それで、天国に行くには、イエス様が祝福される「自分の無知無力を知る心の貧しい人」を意識することが大切になります。