祈り
祈り
ヨハネ・ヤジロー
お祈りは様々です。私も知らないような形の祈りが多くあるでしょう。一人の人間の知識などたかが知れています。おそらく、声を出して祈るのがよくある形で、それも、泣き叫ぶような形が多いのは、天に届くように祈るためです。その美しい形に賛美歌があります。しかし、周りに人がいて人から聞かれてはいけない時は心の中で祈ります。しかし、心の中で、どんなに叫んでもかまいません。一方、静かにひそかに祈る形もあります。答えを聞きたい時は、叫ぶよりもひそかに祈った方が神様からの声を聞きやすいときがあるからです。とにかく、天からの声を謙虚に聞く気持ちがあれば聞ける確率が増えます。まぁ、それでも、自分に準備ができていないと聞きたくても聞けないものです。30年後に答えが聞けたこともあります。
また、私は、マイクの前で、つまり、人前でする祈りは好きではありません。人からよく見られたいという気持ちが働いて、神様から耳を傾けてもらえないような祈りになりやすいからです。神様から聞いてもらえないような祈りになる危険を持っているからです。
そのことをイエス様は、このように心配して言われています。
「祈るときには偽善者のようになってはいけません。彼らは会堂や(広い)街角で立って祈るのが好きです。人から見られるためです。アーメン!言います。彼らは報われています。」(マタイによる福音書6章5節)
人は自分のことを中心に考えるように生まれついています。たとえば、赤ちゃんは時や場所などを選ばずに泣きます。そのエゴを母親は簡単に認めます。人は自分の中にあるエゴを認めているものです。エゴという言葉はギリシャ語で「私」と言う意味の一人称主語(私は、私が)に由来します。
それで、「人を殺してはいけない、盗んではいけない、ウソの証言をしてはいけない」などの戒めが神様から人に与えられています。そうです。人は対人関係の過(あやま)ちを犯しやすいように生まれついています。
それで、人が一番よく行う祈りは個人的な祈りです。それも多いのは、苦しい時の神頼みです。私も同様です。泣きたいような気持ちになったときは私は祈ります。祈りの多くは、人から聞かれるのが恥ずかしいものではないかと思っています。誰にも聞かれないように祈る祈りは多いと思います。
それで、このような祈り方をイエス様は勧めておられます。
「それで、あなたが祈るときには奥の個室に入りなさい。そのドアを閉めなさい。そして、祈りなさい。奥に隠れておられる父(神様)に。すると、隠れたことを見ておられるあなたの父はあなたに報いてくださる。
それから、祈るときには異教徒(異邦人)のようにクドクドと繰り返さないように。彼らは思っている。何度も言えば聞いてくださると。
それで、彼らのマネをしてはいけません。あなた方に何が必要か、あなた方が父に願う前から、あなた方の父は知っておられるのです。
それで、このようにあなた方は祈りなさい。
『天にまします父よ
み名が あがめられませ み国が来ませ み心がなりませ 天のように地にも
パンを与えませ 今日も
また 罪や借金を赦(ゆる)しませ
われらがわれらに罪や借金がある人をわれらが赦(ゆる)しましたように
また 試されませんように さらに その苦しみや悪から救いませ』
人の過(あやま)ちを赦したら、あなた方の天の父もあなた方を赦されます。
でも、人の過ちを赦さないなら、あなた方の父もあなた方の過ちを赦されません。」
(マタイによる福音書6章6~15節)
それから人を赦すのは、その人のためではありません。自分のためです。人というものは生まれつき自分中心な所がありますので自分のために人を赦すという気持ちがないと人を赦すことは難しいものです。
情けは人のためならず、自分のためです。実際に実行してみますと自分の中にある怒りや憎しみが消えて楽な気持ちになります。楽な気持ちになれるのが天国です。
相手の人が、距離を置く必要のあるような「ややこしい人」でしたら、黙って許しておくことです。相手の名前が人に知られぬようにドアを閉めてひそかに祈ることです。