イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

犠牲による愛

                        ヨハネ・ヤジロー

 

 イエスの愛は十字架に代表される犠牲による愛。これは頭や心で思っても簡単にできるものではありません。マタイによる福音書8章16節~22節を読み、思いました。

その16~17節。

「それで、夕方には、悪霊に苦しむ多くの人(病人)が、イエスのもとに連れて来られた。イエスは言葉でそれらの霊を追い出された。苦しんでいるすべての人(病人)を治療された。これは、次のように予言者イザヤを通して告げられた言葉が成就するためであった。『彼は我らの弱さや病を背負い、我らからそれらを取り除いた』。」

 すると、イエス様は人間の肉体を持っておられたので多くの病人を治療して疲れられた。ここの参照聖句イザヤ書53章4節は「まことに我らの病や痛みを彼は背負った。すると我らは彼のことをこう思った。神に打たれて彼は苦しんでいるのだ。」。

 つまり、多くの人は、犠牲による愛に気づかないで、イザヤ書にあるように思いやすい。イエス様の愛は、人からすぐ評価されたい、と思っている人にはできない。疲れを覚えやすい。

 それもあり、その18節にはこうある。

「さて、イエスは周りの群衆を見られると(ガリラヤ湖の)向こう岸に(船で)行こうと命じられた。」

 そこに、イエス様の弟子を志願するユダヤ教の学者(教師、法師)が現れる。

その19節。

「すると、ある法師がイエスに近寄って来て言った。『先生、どこでも、ついて行きます。』」

エス様は彼に、ついて行きます、と言っても実際は旅を住処とするようなもので簡単なことではないよ、と言われる。その20節。

「キツネには穴がある。空の鳥には巣が、だが、アダムの子(イエスの自称)にはわが家がない(草を枕にするようなもの)。」

アダムの子は人の子とよく訳されていますが、創世記に出てくる最初の人アダム、エデンの園(楽園)から苦労して働かなくてはいけないこの世に追放されたアダム、神様が最初に造られた人(神の子)のイメージもあり、ここではアダムの子と訳しています。

 その21~23節には弟子の心構えというか弟子としての優先順位。

「また、別の弟子が言った。

『主よ、最初に父の葬式をするために行かせてください。』

ところが、イエスは言われた。

『私について来なさい。死者の葬式は死者たちにさせなさい。』

それから、イエスが船に乗り込まれると弟子たちはイエスについて行った。」

 イエス様について行くには、多くの人には当たり前に存在することを犠牲にすることがありますか。八方美人はできない。悩むより捨てることですか。その優先順位は、イエス様の言葉から思えば、生きている人を優先することです。

最近、少子高齢化でお墓の問題が生じています。我が家から墓守がいなくなるとことが、よく話題になっています。

しかし、神様の優先順位は生きている人が上です。それは、キリスト教が死者の復活を信じているからです。