イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

元気に生きる

                    ヨハネ・ヤジロー

 元気に生きていきたい。ピンピン生きてコロリと、ピンピンコロリと死にたい。

ある人は言う。人間の象徴アダムは農夫だった。死ぬまで農夫をやっていればピンピンコロリと死ねる。それで、人はエデンの園を追い出されて額に汗をかきながら生きていく定めとなったのか。人間、体を動かさないでいると体の機能が衰えていく。介護を受けている人々を長年みてきて、ふと思った。それで、汗を流さない生き方は危険だ。汗を流さないで結果を出す手段に嘘(うそ)をつく、という手段がある。

つまり、汗を流さない賢さに走ると人は嘘(うそ)をつきやすい。楽だから嘘をつく。しかし、追放が待つ。地道に汗をかかないで楽園にいるかのように稼ぐには嘘が手っ取り早い。しかし、嘘はいつかばれる。それで、天におられる神様は偽証するなと人を戒められたのだろうか。この戒めを破ると偽証罪になる。この罪から来る本当の罰は元気に生きていけないことだ。最近の国会のテレビ中継による嘘の追求などを見て思う。最初の勢いが失せてきて目や言葉が死んでいく。汗をかかないで短時間で楽に金儲けをするには嘘が最短コースだ。嘘で何億円も稼げたことが国会で証明されていく。しかし、嘘の結果なのだ。いくら頭が良く芝居が上手でも、嘘はばれるものだ。嘘に忠誠心などあるものか。あるのは出世とか金の見返りという下心だ。昔の武士の忠義も安定した報酬保障を基礎としていた。それで、その保証があやしくなるとテロや流血の幕末という時代が訪れた。ここに勝てば官軍というよりはサバイバルがあった。いや、正確には、生き残った者が勝利者。古代から変わらぬ原則があった。

 戦わなくても、太陽の下で汗をかく仕事は何処にでも昔からある。元気に生きていく最短コースなのだろう。介護で苦しんだことのある人なら誰でも知っていることがある。体が動かなくなるから介護だ。汗をかく道を行くべきだ。それでも、人は楽な道を選ぼうとする。禁じられた実を手に取って食べたがるものだ。おまけにパートナーまで食べさせる。こんなことを書いている自分自身もアダムの自覚がある。他人を裁く資格など私にはない。

みんな、どこかで罪を犯すことがある。イエス様は不倫をしていなくても思うだけでも罪だ、と言われた。そんな芝居やドラマが今も昔も人が見ていることで実証している。

つまり、みんな罪人だ。どうして、人は罪を犯すものなのか。この罪の定義は古代からの伝統によれば、神様の目から見て、正しいことをしないことが罪だ。神様が基準の正義に反すれば罪なのだ。刑務所の中に入れなければ・・・そんな、ずる賢い基準の正義ではない。つまり、人はどこかで罪を犯す者なのだ。嘘が通用しない正義だ。人は相手の心が見抜けないときがある。しかし、神様は人の心を見られる。嘘が通用しない。芝居もばれる。

 そのように思っているときに聖パウロが書いたローへの信徒への手紙を読んだ。

5章1節はこのように書いてある。

「それで、主イエス・キリストを通して神様を信じることで正しいとされて、安らぎを得て元気になる。」

 これは、自らの罪を認めて、救いの神様(罪を拭い去ってくださるキリスト)に救いを求める信仰で救われること・・・それだけが正義とパウロは言っている。誰もいない世界で一人で生きている分には罪は存在しない。しかし、その世界に異性が来れば・・・罪は忍び寄る。欲が成長すれば罪を犯しやすい。とにかく、体がピンピンしていることは健康的には良いことなのだけど・・・罪に負けやすくもなる。

 異性に限らないけれど、その関係が多いことは、思うだけで罪なるというイエス様の言葉から推察がつく。旧約聖書の世界の中で最高の英雄ダビデも罪を犯したのは異性関係であった。様々な罪の温床となりやすいのが異性関係だ。アダムのときからそうであった。