イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

断食

ヨハネ・ヤジロー

 洋の東西を問わず、断食は宗教的な慣習や苦行として古代からある。

様々な目的があるらしい。目的に応じて、完全な断食や部分的な断食もある。しかし、飲食を完全に絶つことは危険。だけど、悲しみに暮れているときは完全な断食に自然になりやすい。宗教的な慣習とは別に健康のための断食もあるが、主な目的は、悪いことをしたら天から罰が与えられるので、その罰がこわくて、断食苦行をして、つまり、反省をしていることを具体的に天(神様)に示して、天罰が下らないようにすること。

とにかく、断食をするのは自分のためだ。

つまり、人間は結果を見れば、悪いことをした事実が存在するので、いつも断食をすることになる。それで、断食が宗教的な苦行としての慣習となったのかも知れない。

それで、イエス様の時代には、週に2度断食をする習慣を持った坊さんがいたらしいが、その断食を自慢するような宗教的な勘違い、つまり、偽善的な罪があったらしい。その断食でできた余裕を活かして困窮している人に食べ物を施すこと自体は良いことなのだけど感謝されて勘違いしたのかな。まぁ、良い人だと思われたいと間違える。

こわいのは、このような人前での偽善がもたらす毒は、人の心に入っていきやすいので、暴力団などより深刻な結果をもたらしやすい。悪人の方が善人より救われやすい、となる。

 マタイによる福音書9章14~17節あたりを読んでみたい。

「(イエス様が正しい人を招くために来たのではない、悪い人のためだと言われた。)そのときにイエスのもとにヨハネの弟子たちは来て言った。

「私ども(エッセネ派修道院派?)や法師派(ファリサイ派)は、断食をするのに、どうして、あなたの弟子たちは断食をしないのですか。」

するとイエスは彼らに言われた。

「花婿(イエス・キリスト)に付き添う者たちが花婿といる間は悲しめようか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日(十字架の日)が来る。するとそのとき、断食をする。

また、誰も真(ま)新しい布切れ(イエス様の率いるナザレ派、後のキリスト教徒)で、古い服の裂け目にパッチをしない。パッチが縮んで服を引き裂き、前よりもひどくなるからだ。また、新しいワイン(ナザレ派)を古い皮袋に入れない。そうしないと、古い皮袋は引き裂かれる。(新しいワインは発酵していくので、古くて弾力性の失われた皮にストレスを与えるので、古い皮袋は引き裂かれる。)ワインは流れ出て古い皮袋は使えなくなる。(死ぬ。)それで、新しいワインは新しい皮袋に入れる。すると両方とも共存(保存)できる。」