イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

罪(つみ)とは何か

 罪とは何か。この問いに多様な答えがあるだろうと思います。

 キリスト教の基礎は旧約聖書、特に、モーセの5書ではあるけど、新約聖書キリスト教の華。それで、新約聖書の原語の罪という言葉の起源を見てみます。

「罪」という言葉の音訳は、「ハマルティア」もしくは「アマルティア」。これは、「的外れ」という意味から来ています。

槍(やり)を的(まと)にあてようとして外した失敗に由来する「的外れ」が「罪」の由来です。的外れのような失敗なら誰でもします。つまり、罪とは誰でも犯すものだ、と新約聖書は語るのです。

また、罪には「あの人には借りがある」というような「借り」という意味もあります。借金も罪の仲間です。さらに、イエス様は女の人を見て「あの人と不倫をしたい」と思えば罪だと言われます。殺人のような大きな罪だけが罪ではありません。

つまり、「誰もが、人間である限り、罪を犯す」ものだというのがキリスト教です。

特に、人間が二人以上になるとあらゆる罪が生まれてきます。人間は集団生活をする生き物ですから、あらゆる罪を犯すものです。罪深いのが人間です。

人類最初の罪は、アダムの伴侶イブの犯した罪です。神様が「取って食べてはいけない。死ぬから」と教え戒められていたにもかかわらず、イブは禁断の実を取って食べました。おまけに、伴侶のアダムにも禁断の実を食べさせます。そのときの思考が、偽りの父サタンの化身である蛇の言葉です。要するに嘘(うそ)です。禁断の実を食べても死なない、神様のように善悪を知り、賢くなる、という弁解が可能な嘘です。しかし、罪の結果は死です。それで、みな人は死ぬわけです。それに、だまされて、悪を知って、それなりに賢くなっても、神様のレベルまで賢くなれるわけではない。それでも、どこかの国の偉い人たちは自分たちは神様のように賢くふるまおうと嘘をついていますか。その嘘は結果的にその人を追い詰めています。

つまり、何の的外れが恐いかというと神様の教えや戒めを軽んじて「私は自由で賢い」と妙な喜びを得る的外れな行いや思考です。高慢は恐い。

 神様の教えや戒めという的から外れたやり方は、自分が神になったかのような成功の気分を味わうことができるかもしれませんが、その最終的な結果は失敗です。

 そうは言っても、人生に失敗はつきものです。私もよく失敗しました。これからもしたくはないけれど失敗をするでしょう。これでは救いがない人生です。それで、イエス様を救い主(キリスト)と信じるようになりました。過去の記録は消せなくても、失敗の結果をキリストは信じることで消してくれます。罪が消せる、と信じる。これが、クリスチャンの信仰です。

ヨハネ・ヤジロー