イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

日本は多神教か

 日本は多神教の国という日本人が言うときは、一神教であるキリスト教を意識して言うことが多い。一神教とはアブラハムが信じた神様を信じている宗教を指して、成立の順番から言えば、ユダヤ教キリスト教イスラム教だ。つまり、同じ神様を信じている一神教は世界の過半数を超えている。

それもそのはずと思う。アブラハムが信じた神様は万物の創造主。つまり、存在するものの中で一番偉い。最高神だ。では、他に神様はいないのか、といえば、ユダヤ民族(ユダヤ教徒)の前身であるイスラエル民族(12部族)は他の神様も信じていたと聖書は語っている。つまり、イスラエルの民族の父でもあるアブラハム一神教から多神教そして一神教というようにイスラエル民族はさまよっている有様が聖書に描かれている。もちろん、その中にはずっと一神教だった人々もいるだろうが、今の日本人と大差のない信仰の状態であったとも聖書から読み取れる。

そこが、聖書が全世界で読み続けられている理由だ。誰にでも聖書は語りかけている。

無神論者にもか。そう、無神論者にも。無神論というのは多神教の一つだ。つまり、無神論は「自分が神様」という多神教だ。自分が神様なら、神様の数は、そこらへんに転がっているというか数えきれないくらい神様がいる。専門的な分野で何々の神様と呼ばれる神様は多い。女神もいる。そうしたら、これは多神教ともいえる。しかし、無神論者にとっては、自分以外の人が神様であっては困るので、自分以外の神の存在は無いとしなくてはいけない。これが、無神論の真実かなぁ。

それより、最高神だけを信じている方が楽だ。祈るとき、願いがかなえられる確率が最も高いではないか。自分を信じるのは狭い範囲では確実かもしれない。しかし、世の中は無限とも思えるほど広い。そして、天災や戦争、また、身近なことでは不運があるかと思えば幸運にも出会う。

この先を読めない事実に何度も出会うと一番読めない神様を信じるに限る。

最高神のことは誰も完全に理解できない。偉大過ぎるから。しかし、信じるには最高の神様だ。祈った結果について、自分の予想や願いから外れていても、納得できるからだ。神様と自分の考えが一致しなくても、相手の方がはるかに偉大であれば納得ができる。自分を神様にすれば、自分が信じられなくなってくるのが人生だ。自分の願い通りに人生が展開しないことが多すぎるからだ。

そして、不確定な時代に日本は入っている。少子高齢化の時代は、ぼけても不自由な体になっても生きていける時代だ。長く生きれば生きるほど、できることは少なくなっていく。それなのに生きていくのか。介護をするのか。いくら介護をしても介護が楽になることはない底なし沼の時代に日本人は生きているのだろうか。そうかといって、昔の姥捨て山の時代も怖い。それで、老人になってからイエス様をキリストと信じる人を周囲に見る機会が増えた。人の一生も多神教から一神教に最終的に紆余曲折はありながらもなっていくのだろうか。

 ただ、デーモン(デモン:古典式発音の音訳ではダイモン)を信じるのは避けるべきだ。激しい怒りという感情に身を任せて殺人をすることになりやすいから。デーモンは多神教の神々の中にもいるが(有名な武将上杉謙信毘沙門天など時代の要求に応じた神、聖書ではヘロデ大王など)人の心の中に容易に入ってくる悪霊もいる。聖書の中にあるデーモンという原語の言葉を訳するときには悪霊と訳していると大体正解なのかも知れないが、異教の神と訳した方が適切な場合もある。オウム真理教の人々の死刑執行の出来事からも思った。

世界の中でも最も信じられている最高の神様を信じたほうが謙虚になれて怒って人を殺そうという気にはなりにくいものと思う。しかし、この言葉も確率が高いだけで、現実には例外的な事実が存在している。カインとアベルの事件にあるように。聖書にある最初の殺人事件だ。最高の神様を信じていても、怒りという感情をセルフコントロール(自己制御)するのは本当に大変なことだが、できないと事件になる。

それでも、アブラハムが信じた神様を信じたほうが幸せ。信じただけで幸せな気持ちになれるから。その気持ちで少しでも天国に行けたことになれるなら、天国は誰のそばにもすぐ近くにある。

いや、もっと、天国は広く高く深いすごいことなのだろうけど、単純に信じるだけでも心の中は幸せになれる。一神教は単純なので楽。そして、信じる範囲は無限なので誰でもどこかに幸せを見つけられる。