イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

炎の人パウロ

 聖パウロは炎の人だった、と新約聖書を読むたびに思う。その情熱は炎のように熱いのですが、どうも、日本人は感情をあらわにした表現を避けます。恋人と歩くときに、「君を愛してる、君の瞳はきれいだ」とは言えずに「街の明かりがきれいだ」とか告白します。それで、原書からの日本語訳が・・・今ひとつとなりやすい。でも、パウロは純粋なだけです。天才特有の純粋さです。天才ですから一言で多くのことを表現しようとします。それも、彼なりの厳密な理論といいますか、彼にとっては共通の原則、理論ではあるのですが、それでもあり、このくらいは知っているはずだと彼は天才特有の省略した表現をします。そこを理解するとパウロの手紙は読みやすくなります。

 たとえば、パウロは自分はイエス様の奴隷と手紙で書きます。でも、これは「恋の奴隷」的な感情なのです。あなただけ、あなただけという情熱でイエス様を慕っている。これがイエス様をキリストと信じるパウロの信仰です。熱いのです。この熱さを感じる人にペテロもいます。漁師であったペテロが漁をしていたときイエス様に気づいて湖に飛び込みます。ペテロがそのとき裸で漁をしていたからです。ですから、ペテロにとってイエス様が十字架にかかるということは絶対にあってはならないことだった。心の底からイエス様が好きだったのです。ずっとイエス様と一緒にいたかった。死ぬほどイエス様が好きだった。これは彼らの殉教の感情でもあります。心中にほぼ近い。

 パウロもそうですが、この感覚は一神教の感覚でもあります。浮気はいけないのです。多神教は浮気を認めています。よくある日本人の一生は多神教そのものです。生まれてから七五三で神社参り、結婚式はキリストの教会、葬式は仏教。クリスマスも大好きです。サンタクロースはキリスト教の聖人に由来します。

 多神教では不倫は宗教的な文化かもしれませんが、一神教ではだめです。一神教の神様は熱情の神様だからです。浮気はご法度です。それで、十戒の一番最初に来る戒めがこうあるのです。モーセに神様はこう告げられました。「私はあなたの神、主、私があなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した。あなたに私以外の神々があってはならない。」その後、モーセにこうも言われました。「あなたは他の神を拝んではいけない。私は熱く妬み深い。その名は熱情、妬みの神。」と。

熱情と妬みはヘブライ語の原語では一つで「カナ」です。日本の古語「愛し(かな・し)」を連想する言葉です。これは今の「悲し」につながる言葉ですが、自分では抑えきれない痛切な感情表現です。古(いにしえ)を思えば、神様の名は愛とも訳せます。

それで、神様の愛は炎のようです。それで、神様の本質「聖霊」は炎で表現されることもあります。それで、パウロも炎となって神様と親しまれたのです。殉教には心中的な感情があります。イエス様の愛は熱い。その故に十字架にかかられた。それにパウロも炎となって応答した。アーメン!  ヨハネ・ヤジロー

 

神様の正義とは義なり

 「神様の正義とは義なり」。つまり、「日本語訳聖書では「義」と「神様の正義」を翻訳しているのです。義を正義と訳してもいいのでしょうが、人間が思う正義と神様の正義とは全く同じではないのです。勧善懲悪であっても恩赦もまた神様の正義なのです。神様は聖書にある通りに「恵みたい者に恵まれ、赦したい者を赦される」のですから、つまり、人の感情や気持ちそして頭脳をはるかに超えた次元・・・神様は全知全能で万物の造り主なのですから、その権威はとうてい人間の及ぶところではないのです。そこのところを押さえておかないと議論や疑問が泉の水のごとくわいてきます。死刑制度についての議論や疑問が代表されます。人間の目から見れば、この世の中は例外的なことが事実として存在しています。ついこの間のことです。教会に集まって聖書を読み、学ぶときにも「義」の具体的な中身の話に及ぶとき、人間が思う正義との混同がありました。すると、聖書を読んでもわからないことばかりです。つまり、人間のレベルで聖書に書いてある義を考えたからです。人間を神様のように扱ってはいけません。そんなことをすれば、「殺すな、盗むな、犯すな」というような当たり前の法が破られて行きます。近年では世界大戦で経験済みですが、規模が小さな小さなところではオウム真理教の人々が人間を神様のように扱ったから「殺すな、盗むな、犯すな」という正義が破られました。

 確かに、一番大事な神様の正義とは、神様を一番目に愛することです。だからこそ、人間を神様のように扱ってはいけないのです。神様の命令が一番優先されます。

しかし聖書の神様は人間の目に見えない。そこで、聖書を学ぶ人々は、祈ります。祈りとは神様との会話でもあります。すると、神様のお考えがわかって、そのように行います。これが、神様を一番目に愛することです。でも、自分の中にこだわりなどがあって、謙虚な心などがないとないときは、神様は沈黙されます。また、神様はご自分のお考えを祈っているものがわからないときにも沈黙されます。祈っても答えは返って来ません。神様の沈黙があります。このとき、勘違いはいけません。神様はいないのではなく、神様はおられるのです。ここが、神様が恵みたい者に恵まれるゆえんなのです。人間が自分自身を神様のような立場に立って判断すると「神様はいない。信じられるのは自分だ。いや、金だ」とかいう気持ちになってきます。

 そこで、クリスチャンは、イエス様を思い出すために、イエス様の十字架での犠牲の死と復活を深く思い、その象徴であるパンとワインを定期的にいただきます。

そのとき、神様の正義に不従順であったこと(罪を犯したこと)を思い起こし赦していただく。そう、自分の罪や穢れから清めていただくために自分自身の心が張り裂けたかのように・・・つまり、まことの謙虚さをもってパンとワインをいただく。そのような信仰を持つとき、人は神様から義とされます。

古代と現代のキリスト教会との違い

 古代の新約聖書時代のキリスト教会と現代のキリスト教会との違いについて思った。

そう思ってみても、現代は数えきれないくらいの教会があり、宗派も多様だ。表面的な違いは個人的に知っている範囲をはるかに超えて多いだろう。個人的によく知っている教会も日本にある北部九州のいくつかの教会しかない。教会に行くようになって50年未満だ。そのような狭い経験でもこれだけは言えるだろう。

 古代も現代も本質的というか、真実や真理という面では変わりはない。つまり、このことは昔も今もこれからもキリストの教会は存在をしていくということだ。

何で、そんなことが言えるのか。簡単である。新約聖書を読めばわかる。特に、使徒パウロの書簡だ。教会の様々な課題や深刻な問題について書かれてある。現代と本質的に同じなのだ。つまり、教会に来ている人々は、古代も今も変わらない人々の集まりなのだ。理由は、人間の本質が変わらないからだ。その真実からくる行動様式も変わらない。真理というものは変わらないのだ。

その証拠を具体的に示すのは恐い。そう、もっと具体的に書くのは恐い。身近でわかりやすい真実を具体的に書けば書くほど名誉棄損で裁判に訴えられる可能性が高くなるからだ。

それで、せいぜい書けても「おとぎ話」のようなたとえ話だ。すると、新約聖書福音書を読めば良いことになる。そこは聖書の中で、そのことでも最も光り輝いているからだ。

身近で具体的なことは福音書から悟るに限る。誰も迷惑しない。高いお金で探偵を雇う必要もない。

もっと具体的なことは新約聖書の書簡集にある通りで、あとは真理や真実を悟って具体的に応用するだけだ。それもこれも古代も現代も人間の本質が変わらないからだ。

これくらいは、書ける。教会の中でもあらゆる差別が存在し、貧しい人や弱い人の数は多く、性的な乱れも存在することだ。意見の違いからくる争いもある。つまり、教会内も教会外も起きている出来事の内容はそんなに変わらないのだ。ただ、教会内の方が、悲劇の数は少ないと経験的に思う。それで、教会内の方が住み心地が比較的良い、と証言できる。

それは、教会の内部で、イエス様の犠牲による仲直りがあるからだ。その犠牲の象徴は十字架なのだが、古代の血を流す生贄(いけにえ)の儀式を具体的に知らない現代人にはピンと来にくいかもしれない。今はミサ(聖餐式もしくは晩餐式と呼ぶ宗派もある)だ。

生贄の儀式からにミサ(聖餐式、晩餐式)に変更されたことは、神様と人との契約の形式が極めて簡素に変更されたことを意味する。これで、キリストの教会は古代から生き続けている。人は罪を犯すものだ。その自覚があって、聖なるパンとワインをいただく。そこで罪のゆるしが生じる。そこにイエス様のキリストとしての働き、愛がある。

 その愛と何かと使徒パウロは第一コリント13章で語る。その愛を行う人たちがいるからこそ教会の中は住み心地が良くなる。その愛の典型の筆頭に来るのが辛抱、親切。

それだけではない。熱き情熱は持っていても妬んで相手を傷つけない配慮も愛、そう、相手を自慢などしてはずかしめないこと。あらさがしをしないこと。私利私欲に走らないこと。愛からくる折れない心は倒されても立ち上がれる。相手から見れば倒れない。

それは不正を喜ばないで真理を喜ぶから。

そのような愛がある人々により、キリストの教会は、この世の中のどこにでもいる人々の集まりでありながらも、古代から現代まで続いている。数多くの過ちや罪を犯したにもかかわらず。

 

 

 

日本は多神教か

 日本は多神教の国という日本人が言うときは、一神教であるキリスト教を意識して言うことが多い。一神教とはアブラハムが信じた神様を信じている宗教を指して、成立の順番から言えば、ユダヤ教キリスト教イスラム教だ。つまり、同じ神様を信じている一神教は世界の過半数を超えている。

それもそのはずと思う。アブラハムが信じた神様は万物の創造主。つまり、存在するものの中で一番偉い。最高神だ。では、他に神様はいないのか、といえば、ユダヤ民族(ユダヤ教徒)の前身であるイスラエル民族(12部族)は他の神様も信じていたと聖書は語っている。つまり、イスラエルの民族の父でもあるアブラハム一神教から多神教そして一神教というようにイスラエル民族はさまよっている有様が聖書に描かれている。もちろん、その中にはずっと一神教だった人々もいるだろうが、今の日本人と大差のない信仰の状態であったとも聖書から読み取れる。

そこが、聖書が全世界で読み続けられている理由だ。誰にでも聖書は語りかけている。

無神論者にもか。そう、無神論者にも。無神論というのは多神教の一つだ。つまり、無神論は「自分が神様」という多神教だ。自分が神様なら、神様の数は、そこらへんに転がっているというか数えきれないくらい神様がいる。専門的な分野で何々の神様と呼ばれる神様は多い。女神もいる。そうしたら、これは多神教ともいえる。しかし、無神論者にとっては、自分以外の人が神様であっては困るので、自分以外の神の存在は無いとしなくてはいけない。これが、無神論の真実かなぁ。

それより、最高神だけを信じている方が楽だ。祈るとき、願いがかなえられる確率が最も高いではないか。自分を信じるのは狭い範囲では確実かもしれない。しかし、世の中は無限とも思えるほど広い。そして、天災や戦争、また、身近なことでは不運があるかと思えば幸運にも出会う。

この先を読めない事実に何度も出会うと一番読めない神様を信じるに限る。

最高神のことは誰も完全に理解できない。偉大過ぎるから。しかし、信じるには最高の神様だ。祈った結果について、自分の予想や願いから外れていても、納得できるからだ。神様と自分の考えが一致しなくても、相手の方がはるかに偉大であれば納得ができる。自分を神様にすれば、自分が信じられなくなってくるのが人生だ。自分の願い通りに人生が展開しないことが多すぎるからだ。

そして、不確定な時代に日本は入っている。少子高齢化の時代は、ぼけても不自由な体になっても生きていける時代だ。長く生きれば生きるほど、できることは少なくなっていく。それなのに生きていくのか。介護をするのか。いくら介護をしても介護が楽になることはない底なし沼の時代に日本人は生きているのだろうか。そうかといって、昔の姥捨て山の時代も怖い。それで、老人になってからイエス様をキリストと信じる人を周囲に見る機会が増えた。人の一生も多神教から一神教に最終的に紆余曲折はありながらもなっていくのだろうか。

 ただ、デーモン(デモン:古典式発音の音訳ではダイモン)を信じるのは避けるべきだ。激しい怒りという感情に身を任せて殺人をすることになりやすいから。デーモンは多神教の神々の中にもいるが(有名な武将上杉謙信毘沙門天など時代の要求に応じた神、聖書ではヘロデ大王など)人の心の中に容易に入ってくる悪霊もいる。聖書の中にあるデーモンという原語の言葉を訳するときには悪霊と訳していると大体正解なのかも知れないが、異教の神と訳した方が適切な場合もある。オウム真理教の人々の死刑執行の出来事からも思った。

世界の中でも最も信じられている最高の神様を信じたほうが謙虚になれて怒って人を殺そうという気にはなりにくいものと思う。しかし、この言葉も確率が高いだけで、現実には例外的な事実が存在している。カインとアベルの事件にあるように。聖書にある最初の殺人事件だ。最高の神様を信じていても、怒りという感情をセルフコントロール(自己制御)するのは本当に大変なことだが、できないと事件になる。

それでも、アブラハムが信じた神様を信じたほうが幸せ。信じただけで幸せな気持ちになれるから。その気持ちで少しでも天国に行けたことになれるなら、天国は誰のそばにもすぐ近くにある。

いや、もっと、天国は広く高く深いすごいことなのだろうけど、単純に信じるだけでも心の中は幸せになれる。一神教は単純なので楽。そして、信じる範囲は無限なので誰でもどこかに幸せを見つけられる。

 

天罰

  天罰とは神様から下される罰で軽いものから重いものまであり多種多様。

「こんなことをしたので、していたので罰が当たった」と日常的に思うことは多い。

天とは神様を遠回しに述べる表現なので、幅広く使われる言葉。しかし、天罰という言葉はイエス・キリストのイメージとかけ離れているという人がいて、驚いた。

天罰が下るからイエス様をキリストと信じる。罪を犯せば罰が下る。その罪を犯さない人は、イエス様をキリストと信じる必要がない。天罰が恐いから信じるのだ。

たとえば、人殺しや盗みを働いて、信じているから救われる、と人前で言うのは天を恐れぬ言葉で、その裁きは天から下る。信仰とは天からの裁きを恐れることが基本。無知による罪は誰でも犯す。それでも、罪は罪だから天罰は下る。神様の本質は真理であり真実の存在なのだから、無知がなした罪でも罰が下る。パンがなければ、クッキーでも食べれば、というような無知な言葉でギロチンにかけられた人もいる。

そう、イエス様をキリストと信じれば天罰から救われるといっても、信じたかどうかの判断は人間の側にあるのではなく天の側にある。あくまでも、救われるという結果は神様からもたらされる。そのような謙虚さがない信仰で救われることはない。

「人は、皆、罪を犯す」という不変の真実がある。その真実を人は勝手に解釈して、自分を自分で赦す真実や真理としてはいけない。天罰を恐れて、犯した罪の赦しを神様に願うべき。それは、救いは神様の方からもたらされるからだ。

 神様がモーセにご自分のことを語られた言葉(出エジプト記34章5~7節)がある。

「私は憐れみ深い、恵み深い、怒るに遅い、慈しみ深い、真の神、恵みを幾千世代にも保ち、あらゆる罪を赦す神、また、父祖たちの罪を清めて清めることなく、子、孫と三代、四代とわたらせて罰する神。」

それを聞いてモーセはあわてて地に頭を付けるように神様に平伏して言う。

「私がお目にかなう者でしたら、主よ、どうか、主よ、お行き下さい、我らの中を。民は高慢で強情で罪深い者たちでありますが、お許しください。我らを主のものとしてください。」

 イスラエルの民は選民と言われるけど、現代の我々と同じようなあらゆる罪を犯していた。それをモーセが必死に謙虚に神様に恩赦を求めたので救われたどころか、祝福も受けた。

甘えや高慢のある心からもたらされるような信仰ではなく、モーセのような謙虚な信仰がないと救われません。

自分たちのような高慢で強情な者でも何とかお救いくださいという謙虚な信仰がモーセにあったのでイスラエルの民は神様から特別に目をかけられた。選民となった。

 ヨハネヤジロー

 

 

禁断の実と悟り

 神様が造られた初めの人アダムはパートナーの彼女がくれた禁断の実を食べた。禁断の実がなっている木の名前は、直訳すれば、「善と悪を知るための木」または「善と悪がわかるための木」。神様の教えや戒めは「何々をするな」という禁止の言葉が多い。神様の言われたとおりにしておけば、罪は存在しない。罪が最終的にもたらす結果は「死」という罰なので、死んではいけないと神様は戒められた。しかし、最初の人は彼女からもらった禁断の実を食べた。これを男と女の肉体が一つとなることに関する罪と思っている人がいますが、それは一部のことで、その意味はとても広い。

禁断の実を食べると、神様のように善悪を知る、神様のように善悪がわかるようになるからです。

別の言い方をすれば、禁断の実を食べれば、悟るようになる。

しかし、代償は大きく楽園(エデンの園)追放と死です。

知らない方が気楽で良い。でも、ご先祖様の二人が禁断の実を食べたのですから、その子孫の我々も食べる性質を受け継いでいるのです。禁断の実を食べるという性質、罪を犯し、その苦しみの結果から、善と悪を知り、悟りを得ていく。

 人間には制御不能と思えるような悲しい体質、つまり、罪を犯す体質をご先祖様から受け継いでいる。人間一人の力には限界がある。

それで、すべての人は罪から救われなければならなくなる。

 その方法は単純と「イエス様をキリスト(救い主、救世主)」と信じる人々を世の人々はクリスチャンと呼びます。罪を犯さない人はこの世に存在しないという悟りから真のクリスチャンは生まれます。

悟りとは真実や真理を知ること、わかること。ただ、その深みや広さ、その高さははかり知れないので、悟ると言ってもたかが知れている。そのたかが知れているという謙虚さ、無の心といいますか、心の貧しさがある人こそ、聖人です。また、その八福の教えをまことに知り、行える人を聖人と呼びます。

 最初の悟りの感覚は、たアダムとイブ二人の目が開けた、という感覚です。賢くなりそう、と思って禁断の実を食べた二人の目は開けた。つまり、悟った。最初に知ったのは二人が裸であること。禁断の実を食べる前の二人は裸であったのにお互いに恥ずかしいとは思わなかった。悟ったばかりに近くにあったイチジクの葉を縫い合わせて腰に巻くことをした。神様を避けるようになった。仕上げは楽園追放。ふと思います。大人になるよりは神様をお父さまと慕う子供でいたい、と。現実を鏡で見れば、私の頭は白いもので覆われている。

 それでか、福音書には盲人の目が開けて見えるようになったいう記事があります。

マタイによる福音書9章27~30節あたりの記事がその一つで、こうあります。

「さてそこからイエスが出ていかれると二人の盲人がこのように叫びながらイエスについてきた。『あわれみたまえ、我らを、ダビデの子よ。』

それで、家に入られたが、盲人たちはイエスに近寄った。

するとイエスは言われた。『信じるか、できると。』

二人はイエスに言う。『はい、主よ。』

そこで、イエスは二人の目をさわられて言われる。『信じた通りになれ。』

すると二人の目が開かれた。」

 

 

禁じられた遊び

ヨハネ・ヤジロー

 

 人は「禁じられた遊び」をするものだ。それは、イブ(エバ)の子だからだ。

子どもだったころ、母親からこのような言葉で叱られた人はかなりいるだろう。

「こんなことしては、だめでしょ!あれほど言っておいたのに。」

聖書で書かれている神様(主である神)と人間との基本的な関係は親と子。万物の創造主が神様なので、そのようになり、クリスチャンは「天にまします父なる神様」と祈り始めることが多い。その中身も他人には聞かれたくないような内容が大切な祈り。人に聞かれても大丈夫なような祈りは人前でする祈り。そして、秘かに祈る内容は、禁じられた遊びの調子で、過ちを犯したケースが多い。その禁じられた遊びの典型は、禁じられた実を取って食べることだ。冒頭の母親の言葉に代表される。

また、古今東西どこにでもある村の祭りでの乱交を連想する人もいるかもしれない。

聖書の記事では、モーセに率いられた古代イスラエル人が金の子牛という偶像(神)を造って乱交パーティのような祭りを行った。イスラエル人は一神教として知られているが、このような偶像礼拝や多神教の側面もあった。旧約聖書に出てくるイスラエル人は、このようなことを繰り返した。このことが旧約聖書に書かれているのは、これは、今生きている一人の人間にも起きること・・・その危険な性癖、罪を犯しやすい性質を、もともと、人間が持っていることに注意しなさいと戒めるためだ。なぜ、危険か。死という天罰が待っているからだ。死ぬから神様が禁じた・・・霊的に死ぬことを含めた死だ。心が死ぬ。美味しいものを食べても美味しいと感じられなくなる。それなのに人はやる。どんな性癖なのか。

その一つが「禁じられた遊び」をするという性癖だ。具体的には、不倫などの火遊びもその一つだが、比較的程度の軽いもので、飲み打つ買うなどあり、数えきれないくらいの禁じられた遊びに類するものがあるだろう。

 さて、人間はイブの子なのだから禁じられた遊びをする性癖を生まれながらに持っている。その由来を聖書の初めの書「創世記」の2~3章は語っている。

関係する部分だけを簡略的に抜き出していく。

「神様は土のチリで人を造られた。(この土の音訳はアダマーで、赤色系の陶土のイメージ:そのアダマーの形容詞は赤い、血色の良いという意味。人の音訳はアダム。)を形作られた。(神様は陶器師のように人を赤い陶土で形作られた。)

その鼻の中に命の息(別訳:魂、霊)を吹き込まれた。そして、人は生ける魂となった。神様はエデンの園を東方に造られた。(エデン:楽しみ・・・エデンの園の別訳:楽園)(造られたの直訳は植樹した。つまり、神様は植樹により楽園を造られた。)

そこ(楽園)に神様はご自分が造られたアダム(人)を置かれた。

(つまり、アダムは進化論でいうところの人ではないことに注意する。楽園の管理者としてアダムを造られた。)

そして、神様は土(アダマー:アダムの語源)から観賞用のあらゆる木、食用の木、そして、楽園の中央にある「命の木と(神のように)善悪を知る知恵の木」を芽生えさせられた。(中略)

そして、神様はアダムをエデンの園に連れて来られたのは、そこを耕し守らせるためであった。

神様はアダムに命じられた。(イエス様の自称はアダムの子つまり人の子であることに注意)

「楽園のどの木からでも食べて、食べてよい。だが、善悪を知る知恵の木からは、あの木からは食べてはいけない。なぜか、それから食べた日には死ぬ、死ぬからだ。」

ヘブライ語聖書における強調は、朗読を意識しているようで、歌の歌詞のように同じ言葉を繰り返しますので、それを味わってもらいたいために、あえて「決して食べてはいけない」「必ず死ぬ」というような従来の訳し方をここでは避けました。)

神様は言われた。

「アダムが独りでいるのは良くない。彼のために彼女を造ろう。パートナーとしての助け手を。」(以下簡略:神様はアダマーでアダムの助け手として、あらゆる生き物を造られたが、アダムはアダムに見合う助け手を見つけられない。そこで、神様はアダムを深い眠りに落され、彼のあばら骨の一つを取り、女を造られた。それで、アダムは言った。

「今度は私の骨からの骨、肉からの肉、これは男(イィシュ)から造られたのだから女(イシャ)と呼ぼう。」(ヘブライ語で男をイィシュと言います。その小さなィつまり

「’」というようなあばら骨に似たユッドというヘブライ文字を取った形を女性形で呼ぶとイシャつまり女となります。このユッドは彼という意味を持つことがあります。ここいら辺の詩的な面白さは日本語では訳しにくい。イザナギイザナミという男神,女神の雰囲気には近いのですが。アダムとイブは多神教的には男神、女神の雰囲気はありますが。聖書は科学や歴史というよりは文学的な表現をよくします。その中に真理や真実を見出すことが大切で、聖書に進化論を持ち出す人は野暮の骨頂。)

それで、男は父や母と離れて女と結ばれて一つの肉体(一体)となる。アダムと彼女(彼女は直訳で妻とよく訳されている)の二人は裸だった。だが、互いに恥ずかしがらなかった。

そして、神様が造られた中で最も悪賢い生き物は蛇だった。その蛇がアダムの女に言った。「本当に神様は言われたの。楽園のどの木からも食べるな、と。」

すると彼女はその蛇に言った。

「楽園の木から実を私たちは食べれるの。でも、楽園の中央にある木の実については、神様は言われたの。それを取って食べるな、それに触るな、お前たちが死なないため、と。」(それに触るな、とは神様は言われなかった。彼女は神様の言わないことを追加して言っている。つまり、彼女は蛇の言葉に耳を傾けた。過ちの始まり。)

すると、その蛇は彼女に言った。(禁じられた遊びの調子で)

「死なない、死なないよ。だって、神様は知っておられるのだよ。あなた方が食べた日には、あなた方の目が開かれるのですよ。そして、あなた方は神々のように善悪を知るようになるのです。」

そして、彼女は見た。その木が食べるのに良さそう、見るからにおいしそう、賢くなりそう、と。そして、彼女はその木の実を取った、食べた。そして、彼にも与えた。彼女と一緒に彼は食べた。すると、二人の目は開かれた。そして、彼らは彼らが裸であると知った。そして、イチジクの葉を縫い合わせて腰みのを自分たちのために作った。すると、彼らは神様がその日の風に乗って巡回されている声を聞いた。アダムと彼女は中央にある楽園の木(善悪を知る知恵の木)に神様の前から隠れた。

神様はアダムを呼ばれた。彼に言われた。「どこにいるのか。」

すると彼は言った。「あなたの声を園で聞いて恐かったのです。私が裸なので隠れました。」

すると神様は言われた。「誰が教えたのか、あなたが裸である、と。その木からか。私が食べるなと命じておいた木から食べたのか。」

アダムは言った。「あの女です。一緒にいるようにとあなたが与えた女が私にその木から与えました。それで、私は食べた。」

神様は女に言われた。「何でこんなことをしたの。」

その女は言った。「あの蛇が私をだましたの。それで食べました。」

神様は蛇に言われた。「こんなことをしたので、お前は呪われる、あらゆる家畜より、あらゆる野の生き物より。お前は腹ばいに歩くのだ。そして、チリを一生食べるのだ。

互いに憎みあう仲に定める。お前と女は、お前の子と女の子は。女の子はお前の頭を砕く。お前は女の子のかかとを砕く。」(子は子孫という意味)

神様は女に言われた。「私は増しに増す。あなたの妊娠の苦しみを。苦しみの中で子を産むのだ。だが、あなたはあなたの男を熱く求める。すると彼はあなたを治める。」

神様はアダムに言われた。「あなたはあなたの女の声を聞いた。そして、その木から食べるなと私が命じておいた木から食べた。あなたのために地は呪われている。一生、あなたは苦労しながら食べていく。あなたのためにイバラとアザミは芽生えさせる。野菜を食べようとすると。土(アダマー)に帰るまで、あなたは汗をかきながらパンを食べる。あなたが土から取られたからだ。あなたはチリだったのだ。それで、チリに帰るのだ。」

それから、アダムは彼女の名をイブ(エバ:ヘブライ語からの音訳ではハヴァ)と呼んだ。すべての命の母となったからだ。(中略)

神様はエデンの園(楽園)からアダムを追放された。彼が取られた土(アダマー)を耕すために。」

 それで、人は禁じられた遊びの感覚があるせいもあり、苦労する人生を送るのかも知れません。アダムが苦労の初めならアダムの子が苦労から救うべきですか。それで、イエス様はアダムの子(人の子)とご自分のことを自称されていたのでしょうか。