イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

愛は全てをかばい信じ望み耐え忍ぶ

 第1コリント13章7節にある愛の「耐える」には「屋根のように上から覆ってかばってあげる」という「子供をかばう親の愛」のような言葉が原語στεγω(ギリシャ語)があるのですが、既存の日本語訳聖書では簡潔な原文のリズムを壊したくなかったのでしょうか、英訳聖書等を参考にしたのか「かばう」という言葉が見つかりません。

 でも、神様の愛には理想的な親の愛「かばう」も含まれています。

人間が過ちを犯すのは避けられません。過ちを裁いて罰を直ちに与えることは避けた方が良い場合もあります。それで、過ちを犯した人をかばうことを優先すべきときもあります。泥棒にも三分の理があります。不良の子にも言い分があります。不登校の子にも言い分があります。不登校の子の言い分にも理がそれなりにあります。

 子供は突然生まれてくるものではありません。また、生まれてくる家庭を選んできているようには思えません。「子供のときに虐待を受けて心に傷を持つ親」から生まれてきた子供は虐待をその親から受けやすいものです。つまり、虐待の連鎖です。この連鎖は虐待をしている親は気が付きにくいものです。ただ、ひどい結果が出た時に、その結果について悲しみはしましょう。不登校、家出、自殺などの結果です。子供のころに虐待を受けた親は、同様に自分の子供を虐待して、自分の子供を虐待していることに気が付かないでいることがよくあります。虐待の連鎖です。そして、悲劇が起きます。

 自分の子を虐待をしていることに気が付かない親がいます。そのような親は、子供のときに虐待を受けていた可能性があります。しかし、虐待を過ちを気が付かないで育ちますと、その人は親になると自分の子を虐待する可能性があるのです。それも、無意識に虐待をするのです。その虐待が積もり重なって悲劇が起きます。

人は無意識に人を虐待することがあります。その無意識が何代にもわたって積み重なった社会でよく見かけるのが奴隷社会です。奴隷社会は身近に存在するのです。そう、私たちが住んでいる日本に存在するのです。

奴隷社会としての証拠はあります。パワハラです。過労死です。役人の「そんたく」です。貧しく少数派の外国人を長時間にわたり働かせてもひどい低賃金を与えます。奴隷の定義は「低賃金で長時間労働する者」です。その奴隷社会の実態がばれないように日本政府は、それも、法務省の優秀な役人が「外国人労働者の受け入れ法案」に関してデータの改ざんをしたことです。これは、21世紀における新たな同和問題です。深刻な差別をつくります。差別を受ける人を今よりも多くつくろうとしているのです。

差別は虐待の中でも深刻な悲劇をもたらすものです。それを知りながら役人は「そんたく」により法案のための基礎データを改ざんします。これは、日本が奴隷社会であることを覆い隠そうとするものです。このような覆い隠し方で誰をかばうのでしょうか。

そこには神様の愛はありません。悪魔の知恵があるだけです。金目的の汚い知恵です。

そんな知恵で、国会議員をかばうよりも、奴隷扱いを受けて過ちを犯した人々をかばうべきでしょう。

そこに神様の愛があります。「愛は、全てをかばい全てを信じ全てを望み全てに耐え忍ぶ」のです。

ヨハネ・ヤジロー

愛は不正や不義を喜ばない、公正や正義などの真を共に喜ぶ

 第1コリント13章6節に愛の一部が書かれてあります。

「愛は不正や不義を喜ばない、公正や正義などの真(まこと)を共に喜ぶ」

これは、イエス・キリストの愛(アガペー)ですので、それを承知しておかないといけません。それほどまでに、日本語の愛は意味が広い。英語のlove(ラブ)もそうです。愛があれば何をしても良いとはイエス様は言いません。新約聖書でエロス(男女の愛)という言葉を見つけたことがありません。同胞や家族、友人に関する愛(フィリア)は見つけられます。まぁ、とにかく、アダムとイブの時代から男女の愛は幸福と不幸がセットです。エロスだけでの結びつきは二人の間を保証しません。一体となり、互いを知るためにはエロスという愛は大切な役割を果たします。また、よく見かけるフィリアという愛も大切です。

エロスやフィリアという愛だけでは、愛による保証は完成しません。アガペーという愛が必要です。何しろ、敵をも愛する愛です。これで、戦争があっても平和がつくれるのです。勝てば官軍だけでは、奴隷を生じさせても、人間関係の安全保障は生まれない。

特に怖いのが強者の横行です。横車を押すような真理に反することをするのが、強者の喜びと思っているようでは恨みや不幸が生まれるだけです。そんなことをしていたら、弱者はウソをつくしかなくなる。ウソはウソを生み、強者のウソも生む。この世はうそつきばかりになります。

それで、言葉の使われ方や意味が長い目で見れば変化しやすい。意味が反対になることもある。

それで、第1コリント13章6節の訳は長くなりました。間違って読まれたくない、と思った瞬間、ギリシャ語の原文は短いのに長く訳することになりました。

ヨハネ・ヤジロー

愛は人を怒らせない、悪く思わない

  イエス・キリストの愛が第1コリント13章に書かれてありますが、その5節には「礼を失わず、私利私欲に走らず」と述べてから「怒らせない、悪く思わない」と続けて述べてあります。

人をいらだたせたり、人を怒らせることがあります。また、人のこと悪く思い恨みを抱くこともあります、悪いことを人のせいにすることもあります。人は自立しないと周りに迷惑をかけます。それで、人はどうしても自分のことを、まず、考えます。しかし、車や人の多い通りを平気で横断する高齢者を見ることが増えました。

駅のホームではホームドアの設置が進められています。飛び降り自殺防止のためでしょうか。

 これは、今の日本に何が起きているのでしょうか。感情をコントロールできないようなことが増えているのでしょうか。理性で感情をコントロールできる範囲は意外にも狭いものです。怒りのコントロールはあるレベルを超えると難しいものです。ひどい目にあうと恨みの気持ちを抑えることが難しくなります。その結果、自分の気持ちを理性で制御できなくなり、過激な行動へと走りだします。

 少子高齢化の日本です。外国人が日本に来るのは自然の流れです。そこに差別や排除があれば、今の自殺の増加どころではありません。人殺しも増えます。

 考え、習慣、文化の違うことによる悲劇を防いで、闇を増やさず、光を増やすにはイエス・キリストの愛を行うべきだ、と信じます。

 ヨハネ・ヤジロー

愛は礼を失わず私利私欲に走らず

 聖パウロは第1コリント13章5節で語ります。愛は礼を失わず私利私欲に走らず、と。この愛も、様々な背景を持つ人々の集団生活における愛について語っています。

日本の場合は、比較的広く、この愛は行われているようです。それでも例外的な場面を見るのはプロのスポーツ観戦のときなどです。無礼が赦される雰囲気があるのでしょうか。自己制御をしなくてよい雰囲気の場を設けることに価値が見出されているのでしょうか。何しろ、プロのスポーツ観戦はお金を払ってみるものですから。

 家族や親族の中で私利私欲に走り無礼を働くと大変です。遺産相続のときで、その財産が大きければ大きいほど、この愛は守られにくくなります。

 プロスポーツの世界は勝てば勝つほど評価されます。独り勝ちする者はヒーローですが、家族や親族の中では独り勝ちは危険です。友人などとの関係もそうです。この愛を行わないでいると、気が付けば、孤独な自分の存在に気が付きます。

 それで、プロスポーツの世界で成功した人が、離婚をすることがあるのも、結果を出すために自分中心の生活習慣を身に着けたことが原因となっていることがあります。

たとえば、女性は赤ちゃんができると優先順位の一番目は、夫より赤ちゃんになるのは自然なことですが、プロの世界で身に着けた自分中心の生活習慣が災いをします。

 出世のために仕事などで身に着けた生活習慣は、仕事などでは有利になる場合が多くありますが、自分の家族におけるトラブルや病気そして離婚の原因とかになりやすい。そのことに気が付く言葉の一つが、愛は礼を失わず私利私欲に走らず、です。

愛は自慢しない、誇らない

「愛は自慢しない、誇らない」とは、イエス・キリストの愛の一つの側面を表現した言葉です。(第1コリント13章4節)原語のギリシャ語の語源を見てみますと「自慢する」は「うぬぼれが強い」という言葉から来ています。「誇る」は「ふいご」もありますが「生まれ、家系、出身」などという言葉からも来ているようです。

 誰でも、自慢したり、誇ったりした経験はあると思います。たとえば、美しい娘や息子の親だとします。どうしても自分の子を自慢したり、誇ったりする感情が起きます。このことが問題になるのは集団生活をしているときです。大きな集団になればなるほど、生まれや育ちの違いが多種多様になります。気を付けていないと差別という深刻な問題を引き起こします。差別はあらゆる悲劇の原因となりやすい。

 イエス・キリストが自ら伝道されたパレスチナは多民族・多言語社会です。また、古代文明の交差点でもあります。ギリシャ文明、エジプト文明メソポタミア文明です。

特にイエス様が育ったガリラヤ地方は移住などで異邦人の地ガリラヤと呼ばれたところです。そのような所で集団生活していくには「自慢しない、誇らない」という愛が必要だったのです。これは、極東にある日本でも交通機関の発達により同様です。しかも、少子高齢化が進む日本では外国人の受け入れは必然です。私が住んでいる地域でも外国人の子供たちをよく見かけるようになりました。昔は東アジア系が多いので、一見、日本人と見分けがつかないことが多かったのですが、今はそうでもなくなってきています。

 それで「愛は自慢しない、誇らない」という言葉を身近に感じるようになってきました。この言葉の前にはこのような言葉があります。

「もしも、異なる言葉や天使の言葉で私が語れようとも私に愛がなければ私は単に鳴る鐘やシンバルとなる。もしも、予言ができても、あらゆる奥義や知識を得ていても、山を移すに十分な信仰があろうとも私に愛がなければ私はいてもいなくてもよい存在となる。もしも、全財産を施しても誇りのために全身を捧げても私に愛がなければ私は何の役にも立たない。愛はすぐ怒らず親切で情けがある。愛はひどく妬まない。」

ヨハネ・ヤジロー

愛はひどく妬まない

 聖パウロは第1コリント13章で言います。

「愛は(すぐ怒らないで)長く耐え忍び(情け深く)親切」と述べてから「愛はひどく妬(ねた)まない」と続けます。

 この「ひどく妬まない」という言葉は「妬まない」と単純に訳されることもある言葉ですが、人は妬むものです。妬むのは仕方がないとしても「ひどく妬む」と事件になりやすいものです。2千年前、ユダヤ人指導者たちはイエス様の人気を妬んで、それも、ひどく妬んだので、イエス様を十字架に架けたのです。男の妬みは事件になりやすい。

 今の日本でも・・・つい最近のことですが、人気のある貴乃花親方のことです。

相撲協会の指導者たちは妬みの感情でやりすぎている気がしてなりません。人間は誰でも大なり小なり過ちを犯すことがあります。だけど裁くのは難しいものです。神様以外に正しく裁ける方はいません。

 また、妬みがひどいと処罰感情が行きすぎます。このようなことを指導的な立場の人たちがしていては相撲を見る人が少なくなるかもしれません。愛がない、と負の連鎖が続きます。何とか愛をのある、情けの有る結果を待ち望みます。本当に、結果的に行き過ぎないことを祈っています。

愛は親切で情け深い

 イエス様の愛(キリストの愛)を聖パウロは第1コリント13章を中心に述べています。この愛の大切さを述べる前に聖パウロの頭にあったのは、教会内の人間関係の問題です。それは、第1コリント(コリントの信徒への手紙一)を読めば・・・古今東西どこにでもある人間関係の問題です。

 最近、どこかの国の協会それも複数の協会で問題があることが暴露されていますが、人間関係の問題から組織的な問題になる、または、組織の問題が暴露されることがよくあり、そのようなことで、集団内部の人間関係に悩み苦しんだ経験は誰でもあると思います。

人が集団を形成すれば、争いが生じるものです。これは避けられない。人には個性があり、人生経験も様々ですし、育った背景や人間関係にも違いがあるので、ものの見方や考えに相違があるのが当然で、人は過ちを犯すものですから、争いは生じるものです。

 それで、キリスト教では愛が一番大切と説くのです。その愛は半端なものではありません。イエス様の「なんじの敵を愛せ」という言葉に集約されるからです。これは、実際問題として、なかなかできなかった経験が誰にでもあると思います。書いている本人もそのような経験があります。まして、敵の用意した十字架にかけられる究極の「敵を愛する愛」など・・・・。私は十字架にかけられたくないと逃げた経験があります。

 でも、「すぐ怒らない」ことなら誰にでもできそうな愛です。頭に血がのぼるといいますか、急に熱くなるというか、「かっとなる怒り」が生じた経験は誰にでもあるでしょう。

 この怒りは自己制御が難しいものです。失敗につながりやすい怒りです。それで、聖パウロは、愛とは「怒るのが遅い」つまり、「すぐ怒らない」で辛抱することだ、と述べ、次には「親切で情け深い」と述べます。「親切で情け深い」と原語から訳さずに「情け深い」とか「親切」と別れて訳される言葉でもありますが、本当の親切は情けがなければできないものです。それも慈悲深い気持ちが必要なときがあります。

 カッとなると報復をしたくなるものですが、少しクールになって状況判断をして相手が喜ぶ親切な行いで返すことができれば、悲劇は避けられます。そして、仲直りとなれば、良い協力関係が築けて、人間が集団生活をしている効果が最大限発揮できるようになります。

 愛はすぐ怒らないで親切で返すものです。情けがある、とはそのようなものです。

このような愛は本当の勇気や忍耐が必要なときがあります。

 ヨハネ・ヤジロー