イエスの愛

イエス・キリストの愛についての日記

天罰

  天罰とは神様から下される罰で軽いものから重いものまであり多種多様。

「こんなことをしたので、していたので罰が当たった」と日常的に思うことは多い。

天とは神様を遠回しに述べる表現なので、幅広く使われる言葉。しかし、天罰という言葉はイエス・キリストのイメージとかけ離れているという人がいて、驚いた。

天罰が下るからイエス様をキリストと信じる。罪を犯せば罰が下る。その罪を犯さない人は、イエス様をキリストと信じる必要がない。天罰が恐いから信じるのだ。

たとえば、人殺しや盗みを働いて、信じているから救われる、と人前で言うのは天を恐れぬ言葉で、その裁きは天から下る。信仰とは天からの裁きを恐れることが基本。無知による罪は誰でも犯す。それでも、罪は罪だから天罰は下る。神様の本質は真理であり真実の存在なのだから、無知がなした罪でも罰が下る。パンがなければ、クッキーでも食べれば、というような無知な言葉でギロチンにかけられた人もいる。

そう、イエス様をキリストと信じれば天罰から救われるといっても、信じたかどうかの判断は人間の側にあるのではなく天の側にある。あくまでも、救われるという結果は神様からもたらされる。そのような謙虚さがない信仰で救われることはない。

「人は、皆、罪を犯す」という不変の真実がある。その真実を人は勝手に解釈して、自分を自分で赦す真実や真理としてはいけない。天罰を恐れて、犯した罪の赦しを神様に願うべき。それは、救いは神様の方からもたらされるからだ。

 神様がモーセにご自分のことを語られた言葉(出エジプト記34章5~7節)がある。

「私は憐れみ深い、恵み深い、怒るに遅い、慈しみ深い、真の神、恵みを幾千世代にも保ち、あらゆる罪を赦す神、また、父祖たちの罪を清めて清めることなく、子、孫と三代、四代とわたらせて罰する神。」

それを聞いてモーセはあわてて地に頭を付けるように神様に平伏して言う。

「私がお目にかなう者でしたら、主よ、どうか、主よ、お行き下さい、我らの中を。民は高慢で強情で罪深い者たちでありますが、お許しください。我らを主のものとしてください。」

 イスラエルの民は選民と言われるけど、現代の我々と同じようなあらゆる罪を犯していた。それをモーセが必死に謙虚に神様に恩赦を求めたので救われたどころか、祝福も受けた。

甘えや高慢のある心からもたらされるような信仰ではなく、モーセのような謙虚な信仰がないと救われません。

自分たちのような高慢で強情な者でも何とかお救いくださいという謙虚な信仰がモーセにあったのでイスラエルの民は神様から特別に目をかけられた。選民となった。

 ヨハネヤジロー

 

 

禁断の実と悟り

 神様が造られた初めの人アダムはパートナーの彼女がくれた禁断の実を食べた。禁断の実がなっている木の名前は、直訳すれば、「善と悪を知るための木」または「善と悪がわかるための木」。神様の教えや戒めは「何々をするな」という禁止の言葉が多い。神様の言われたとおりにしておけば、罪は存在しない。罪が最終的にもたらす結果は「死」という罰なので、死んではいけないと神様は戒められた。しかし、最初の人は彼女からもらった禁断の実を食べた。これを男と女の肉体が一つとなることに関する罪と思っている人がいますが、それは一部のことで、その意味はとても広い。

禁断の実を食べると、神様のように善悪を知る、神様のように善悪がわかるようになるからです。

別の言い方をすれば、禁断の実を食べれば、悟るようになる。

しかし、代償は大きく楽園(エデンの園)追放と死です。

知らない方が気楽で良い。でも、ご先祖様の二人が禁断の実を食べたのですから、その子孫の我々も食べる性質を受け継いでいるのです。禁断の実を食べるという性質、罪を犯し、その苦しみの結果から、善と悪を知り、悟りを得ていく。

 人間には制御不能と思えるような悲しい体質、つまり、罪を犯す体質をご先祖様から受け継いでいる。人間一人の力には限界がある。

それで、すべての人は罪から救われなければならなくなる。

 その方法は単純と「イエス様をキリスト(救い主、救世主)」と信じる人々を世の人々はクリスチャンと呼びます。罪を犯さない人はこの世に存在しないという悟りから真のクリスチャンは生まれます。

悟りとは真実や真理を知ること、わかること。ただ、その深みや広さ、その高さははかり知れないので、悟ると言ってもたかが知れている。そのたかが知れているという謙虚さ、無の心といいますか、心の貧しさがある人こそ、聖人です。また、その八福の教えをまことに知り、行える人を聖人と呼びます。

 最初の悟りの感覚は、たアダムとイブ二人の目が開けた、という感覚です。賢くなりそう、と思って禁断の実を食べた二人の目は開けた。つまり、悟った。最初に知ったのは二人が裸であること。禁断の実を食べる前の二人は裸であったのにお互いに恥ずかしいとは思わなかった。悟ったばかりに近くにあったイチジクの葉を縫い合わせて腰に巻くことをした。神様を避けるようになった。仕上げは楽園追放。ふと思います。大人になるよりは神様をお父さまと慕う子供でいたい、と。現実を鏡で見れば、私の頭は白いもので覆われている。

 それでか、福音書には盲人の目が開けて見えるようになったいう記事があります。

マタイによる福音書9章27~30節あたりの記事がその一つで、こうあります。

「さてそこからイエスが出ていかれると二人の盲人がこのように叫びながらイエスについてきた。『あわれみたまえ、我らを、ダビデの子よ。』

それで、家に入られたが、盲人たちはイエスに近寄った。

するとイエスは言われた。『信じるか、できると。』

二人はイエスに言う。『はい、主よ。』

そこで、イエスは二人の目をさわられて言われる。『信じた通りになれ。』

すると二人の目が開かれた。」

 

 

禁じられた遊び

ヨハネ・ヤジロー

 

 人は「禁じられた遊び」をするものだ。それは、イブ(エバ)の子だからだ。

子どもだったころ、母親からこのような言葉で叱られた人はかなりいるだろう。

「こんなことしては、だめでしょ!あれほど言っておいたのに。」

聖書で書かれている神様(主である神)と人間との基本的な関係は親と子。万物の創造主が神様なので、そのようになり、クリスチャンは「天にまします父なる神様」と祈り始めることが多い。その中身も他人には聞かれたくないような内容が大切な祈り。人に聞かれても大丈夫なような祈りは人前でする祈り。そして、秘かに祈る内容は、禁じられた遊びの調子で、過ちを犯したケースが多い。その禁じられた遊びの典型は、禁じられた実を取って食べることだ。冒頭の母親の言葉に代表される。

また、古今東西どこにでもある村の祭りでの乱交を連想する人もいるかもしれない。

聖書の記事では、モーセに率いられた古代イスラエル人が金の子牛という偶像(神)を造って乱交パーティのような祭りを行った。イスラエル人は一神教として知られているが、このような偶像礼拝や多神教の側面もあった。旧約聖書に出てくるイスラエル人は、このようなことを繰り返した。このことが旧約聖書に書かれているのは、これは、今生きている一人の人間にも起きること・・・その危険な性癖、罪を犯しやすい性質を、もともと、人間が持っていることに注意しなさいと戒めるためだ。なぜ、危険か。死という天罰が待っているからだ。死ぬから神様が禁じた・・・霊的に死ぬことを含めた死だ。心が死ぬ。美味しいものを食べても美味しいと感じられなくなる。それなのに人はやる。どんな性癖なのか。

その一つが「禁じられた遊び」をするという性癖だ。具体的には、不倫などの火遊びもその一つだが、比較的程度の軽いもので、飲み打つ買うなどあり、数えきれないくらいの禁じられた遊びに類するものがあるだろう。

 さて、人間はイブの子なのだから禁じられた遊びをする性癖を生まれながらに持っている。その由来を聖書の初めの書「創世記」の2~3章は語っている。

関係する部分だけを簡略的に抜き出していく。

「神様は土のチリで人を造られた。(この土の音訳はアダマーで、赤色系の陶土のイメージ:そのアダマーの形容詞は赤い、血色の良いという意味。人の音訳はアダム。)を形作られた。(神様は陶器師のように人を赤い陶土で形作られた。)

その鼻の中に命の息(別訳:魂、霊)を吹き込まれた。そして、人は生ける魂となった。神様はエデンの園を東方に造られた。(エデン:楽しみ・・・エデンの園の別訳:楽園)(造られたの直訳は植樹した。つまり、神様は植樹により楽園を造られた。)

そこ(楽園)に神様はご自分が造られたアダム(人)を置かれた。

(つまり、アダムは進化論でいうところの人ではないことに注意する。楽園の管理者としてアダムを造られた。)

そして、神様は土(アダマー:アダムの語源)から観賞用のあらゆる木、食用の木、そして、楽園の中央にある「命の木と(神のように)善悪を知る知恵の木」を芽生えさせられた。(中略)

そして、神様はアダムをエデンの園に連れて来られたのは、そこを耕し守らせるためであった。

神様はアダムに命じられた。(イエス様の自称はアダムの子つまり人の子であることに注意)

「楽園のどの木からでも食べて、食べてよい。だが、善悪を知る知恵の木からは、あの木からは食べてはいけない。なぜか、それから食べた日には死ぬ、死ぬからだ。」

ヘブライ語聖書における強調は、朗読を意識しているようで、歌の歌詞のように同じ言葉を繰り返しますので、それを味わってもらいたいために、あえて「決して食べてはいけない」「必ず死ぬ」というような従来の訳し方をここでは避けました。)

神様は言われた。

「アダムが独りでいるのは良くない。彼のために彼女を造ろう。パートナーとしての助け手を。」(以下簡略:神様はアダマーでアダムの助け手として、あらゆる生き物を造られたが、アダムはアダムに見合う助け手を見つけられない。そこで、神様はアダムを深い眠りに落され、彼のあばら骨の一つを取り、女を造られた。それで、アダムは言った。

「今度は私の骨からの骨、肉からの肉、これは男(イィシュ)から造られたのだから女(イシャ)と呼ぼう。」(ヘブライ語で男をイィシュと言います。その小さなィつまり

「’」というようなあばら骨に似たユッドというヘブライ文字を取った形を女性形で呼ぶとイシャつまり女となります。このユッドは彼という意味を持つことがあります。ここいら辺の詩的な面白さは日本語では訳しにくい。イザナギイザナミという男神,女神の雰囲気には近いのですが。アダムとイブは多神教的には男神、女神の雰囲気はありますが。聖書は科学や歴史というよりは文学的な表現をよくします。その中に真理や真実を見出すことが大切で、聖書に進化論を持ち出す人は野暮の骨頂。)

それで、男は父や母と離れて女と結ばれて一つの肉体(一体)となる。アダムと彼女(彼女は直訳で妻とよく訳されている)の二人は裸だった。だが、互いに恥ずかしがらなかった。

そして、神様が造られた中で最も悪賢い生き物は蛇だった。その蛇がアダムの女に言った。「本当に神様は言われたの。楽園のどの木からも食べるな、と。」

すると彼女はその蛇に言った。

「楽園の木から実を私たちは食べれるの。でも、楽園の中央にある木の実については、神様は言われたの。それを取って食べるな、それに触るな、お前たちが死なないため、と。」(それに触るな、とは神様は言われなかった。彼女は神様の言わないことを追加して言っている。つまり、彼女は蛇の言葉に耳を傾けた。過ちの始まり。)

すると、その蛇は彼女に言った。(禁じられた遊びの調子で)

「死なない、死なないよ。だって、神様は知っておられるのだよ。あなた方が食べた日には、あなた方の目が開かれるのですよ。そして、あなた方は神々のように善悪を知るようになるのです。」

そして、彼女は見た。その木が食べるのに良さそう、見るからにおいしそう、賢くなりそう、と。そして、彼女はその木の実を取った、食べた。そして、彼にも与えた。彼女と一緒に彼は食べた。すると、二人の目は開かれた。そして、彼らは彼らが裸であると知った。そして、イチジクの葉を縫い合わせて腰みのを自分たちのために作った。すると、彼らは神様がその日の風に乗って巡回されている声を聞いた。アダムと彼女は中央にある楽園の木(善悪を知る知恵の木)に神様の前から隠れた。

神様はアダムを呼ばれた。彼に言われた。「どこにいるのか。」

すると彼は言った。「あなたの声を園で聞いて恐かったのです。私が裸なので隠れました。」

すると神様は言われた。「誰が教えたのか、あなたが裸である、と。その木からか。私が食べるなと命じておいた木から食べたのか。」

アダムは言った。「あの女です。一緒にいるようにとあなたが与えた女が私にその木から与えました。それで、私は食べた。」

神様は女に言われた。「何でこんなことをしたの。」

その女は言った。「あの蛇が私をだましたの。それで食べました。」

神様は蛇に言われた。「こんなことをしたので、お前は呪われる、あらゆる家畜より、あらゆる野の生き物より。お前は腹ばいに歩くのだ。そして、チリを一生食べるのだ。

互いに憎みあう仲に定める。お前と女は、お前の子と女の子は。女の子はお前の頭を砕く。お前は女の子のかかとを砕く。」(子は子孫という意味)

神様は女に言われた。「私は増しに増す。あなたの妊娠の苦しみを。苦しみの中で子を産むのだ。だが、あなたはあなたの男を熱く求める。すると彼はあなたを治める。」

神様はアダムに言われた。「あなたはあなたの女の声を聞いた。そして、その木から食べるなと私が命じておいた木から食べた。あなたのために地は呪われている。一生、あなたは苦労しながら食べていく。あなたのためにイバラとアザミは芽生えさせる。野菜を食べようとすると。土(アダマー)に帰るまで、あなたは汗をかきながらパンを食べる。あなたが土から取られたからだ。あなたはチリだったのだ。それで、チリに帰るのだ。」

それから、アダムは彼女の名をイブ(エバ:ヘブライ語からの音訳ではハヴァ)と呼んだ。すべての命の母となったからだ。(中略)

神様はエデンの園(楽園)からアダムを追放された。彼が取られた土(アダマー)を耕すために。」

 それで、人は禁じられた遊びの感覚があるせいもあり、苦労する人生を送るのかも知れません。アダムが苦労の初めならアダムの子が苦労から救うべきですか。それで、イエス様はアダムの子(人の子)とご自分のことを自称されていたのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

罪(つみ)とは何か

 罪とは何か。この問いに多様な答えがあるだろうと思います。

 キリスト教の基礎は旧約聖書、特に、モーセの5書ではあるけど、新約聖書キリスト教の華。それで、新約聖書の原語の罪という言葉の起源を見てみます。

「罪」という言葉の音訳は、「ハマルティア」もしくは「アマルティア」。これは、「的外れ」という意味から来ています。

槍(やり)を的(まと)にあてようとして外した失敗に由来する「的外れ」が「罪」の由来です。的外れのような失敗なら誰でもします。つまり、罪とは誰でも犯すものだ、と新約聖書は語るのです。

また、罪には「あの人には借りがある」というような「借り」という意味もあります。借金も罪の仲間です。さらに、イエス様は女の人を見て「あの人と不倫をしたい」と思えば罪だと言われます。殺人のような大きな罪だけが罪ではありません。

つまり、「誰もが、人間である限り、罪を犯す」ものだというのがキリスト教です。

特に、人間が二人以上になるとあらゆる罪が生まれてきます。人間は集団生活をする生き物ですから、あらゆる罪を犯すものです。罪深いのが人間です。

人類最初の罪は、アダムの伴侶イブの犯した罪です。神様が「取って食べてはいけない。死ぬから」と教え戒められていたにもかかわらず、イブは禁断の実を取って食べました。おまけに、伴侶のアダムにも禁断の実を食べさせます。そのときの思考が、偽りの父サタンの化身である蛇の言葉です。要するに嘘(うそ)です。禁断の実を食べても死なない、神様のように善悪を知り、賢くなる、という弁解が可能な嘘です。しかし、罪の結果は死です。それで、みな人は死ぬわけです。それに、だまされて、悪を知って、それなりに賢くなっても、神様のレベルまで賢くなれるわけではない。それでも、どこかの国の偉い人たちは自分たちは神様のように賢くふるまおうと嘘をついていますか。その嘘は結果的にその人を追い詰めています。

つまり、何の的外れが恐いかというと神様の教えや戒めを軽んじて「私は自由で賢い」と妙な喜びを得る的外れな行いや思考です。高慢は恐い。

 神様の教えや戒めという的から外れたやり方は、自分が神になったかのような成功の気分を味わうことができるかもしれませんが、その最終的な結果は失敗です。

 そうは言っても、人生に失敗はつきものです。私もよく失敗しました。これからもしたくはないけれど失敗をするでしょう。これでは救いがない人生です。それで、イエス様を救い主(キリスト)と信じるようになりました。過去の記録は消せなくても、失敗の結果をキリストは信じることで消してくれます。罪が消せる、と信じる。これが、クリスチャンの信仰です。

ヨハネ・ヤジロー

 

ロゴスと言霊(ことだま)

ヨハネ・ヤジロー

 ロゴスというギリシア語に由来する日本語にロゴという言葉があります。ロゴマークのロゴのように使われることが多い言葉です。このロゴスはヨハネによる福音書の冒頭に出てくる言葉「初めにロゴスあり」です。これは「初めに言葉があった」といった訳で日本語聖書(新共同訳)にあります。

このロゴスという言葉の持つ意味は多いのです。それは、媒介的に使われるからです。とにかく、「言葉」と訳しておけば間違いが少ない言葉です。英語の聖書(KJV)では「the Word」(ザ・ワード)と大文字で表現しています。大文字で表現するのは、神様の特性を示した別の表現ですから、単なるワードという意味ではないですよ、ということで、この雰囲気を表現している言葉には日本語で「言霊」(ことだま)という言葉があります。

古来、日本(やまと)という国は言霊の助けや恵みにより幸せを得ている国という言い伝えがあります。イエス様の使徒ヨハネは、イエス様のことを言霊と媒介的に表現したのです。

別の媒介的な表現をすれば、キリストまたはメシアです。しかし、キリストの本質は聖霊ですから言霊とヨハネ福音書の冒頭で述べたのには大切な意味があります。

 この福音書の冒頭の言葉は、聖書の冒頭の言葉(創世記1章1節)から影響を受けています。それは、こうです。

「初めに大御神(おおみかみ)は天と地を造られた。」

この大御神という言葉は日本語聖書では「神」とシンプルによく訳されています。

でも、原語はエローヒムです。これは直訳すれば「神々」ですが、動詞を見れば単数形ですので「神々の神」という単数形の意味、つまり、「最高神」の尊称ですので、その雰囲気から大御神とここでは訳しています。イスラム教徒が「アラーは偉大なり」と叫び祈るアラーをヘブライ語で言うならエローヒムです。イスラム教徒の聖典の一つに創世記があります。コーランイスラム教の代表的な聖典ですが、創世記もまたイスラム教の聖典です。

 英訳聖書では大御神をGodと表記してgodと表記しないことで、単なるゴッド(神)ではないよ、天地創造の神様、万物の創造主である最も偉大な神様ですよとgをGにして表現をしています。すると、大御神(大神)と表現するのは日本語らしいと思います。

そこで連想するのが天照大御神アマテラスオオミカミ)。

そこで、創世記1章1~3節を見てみます。

「初めに大御神は天と地を造られた。地は形も何もなかった。闇が原始の海を覆っていた。その海の上を大御神の霊が飛び回っていた。大御神は言われた。「光あれ。」すると光があった。」

そして、ヨハネによる福音書1章1~5節を言霊を用いて見てみます。

「初めに言霊あり、言霊は大御神のおそばにあり、すべてはこの方によりなり、この方なしになりしものは何も一つもなし。この方に命あり、この命は人の光なり。この光は闇に輝き、闇はこの光を覆いかぶせなかった。」

また、その福音書の1章10節。

「この光はまことなり。すべての人を照らす。この世に来て。」

そして、その福音書の1章14節。

「また、言霊は人となられ、我らの中に住まわれた。その方の栄光を我らは見た。御父の一人息子(神の初子:人の罪を赦す最高の生贄、十字架による犠牲)としての栄光を。恵みとまことに満ちていた。」

そこで、気になるのは、父なる神様とその子イエス様との関係です。キリスト教ユダヤ教イスラム教徒と兄弟宗教で一神教なのに神様は複数存在するのか、という問いです。三位一体という表現がありますが、媒介的な手法を用いたという表現です。

 媒介的な説明は使徒パウロの手紙にありますが、パウロと同じユダヤ人で、パウロよりも20年ほど前に生まれたと推定されるユダヤフィロンのロゴス論が興味深いのです。これは、伝道などの目的もあり旧約聖書ギリシア語への翻訳が行われていた時代と連動し、また、新約聖書が初めからギリシア語で書かれていたこととも連動をするのでしょうか。ユダヤ人の歴史学者アブラム・レオン・ザハルによればフィロンは神様のことを研究するのにギリシア哲学のプラトンの手法を取り入れたのです。今でいう神学という学問にプラトンの手法を用いた。それが、ロゴスという表現になったということです。物理や数学でもパラメータを用いる媒介的な手法で答えを出す手法があります。つまり、限定的な媒介条件で、必要とされる答えを導き出すときに用いられる手法です。

 この場合の限定的ではあるが、必要とされる答えとは何か。それは、罪深い人間を救うための答えを神様が出すということです。直接、天にまします父なる神様が人を救うことはなさらないで、神の子イエス様が十字架におかかりなるという犠牲という媒介的な手法で人を罪から救われるのです。

 キリスト時代にはフィロンの媒介理論はユダヤ教の主流派(ファリサイ派)などから不評でしたが、ユダヤ教の一派であるナザレ派(後のキリスト教)ではパウロを通して発展的に受け入れられた理論と思われます。つまり、キリスト(メシア)は従来ユダヤ人が信じていたダビデ王のような神の子的な存在ではなく、人の罪のために十字架におかかりなる神の子イエスであると証言するためにヨハネは用いたのです。

ロゴスや十字架という媒介手段を通して、天にまします父なる神様は、罪を犯した人を間接的に救われるということです。

 

 

 

 

 

聖書と歴史書の違い

ヨハネ・ヤジロー

 

 聖書には歴史的な物語が描かれています。でも、我々が学校で学ぶ歴史とは違うのです。学問としての歴史は、現代から百年前くらいのことは生きた関係者もおり、権力が恐いこともあり、大切な真実を語らないことが多い。それより、昔のことでも外面的な出来事を語ります。

 一方、聖書は内面的なことを語ります。聖書の歴史的な部分は、心の歴史なのです。それで、実際に起きた順番に語られないこともあります。聖書の中でクリスチャンが最も読んでいる福音書は、実際には歴史書としても大切に扱われてはいますが、四つの福音書では起きた順番が前後することがあります。それは、福音書の記事を書いた者が、心で感じた真実や真理を簡潔に述べるために、外面的な出来事を編集したことによると思われています。実際に起きた順番よりも、記者が心で思った真実や真理を語る目的を優先したのです。そのように優先したのは、外面的な事実だけでは、犯罪にならなくても、内面的な事実では犯罪になることが多いと思われることも一因です。裁判で、真実をしりたい、という声が多いでしょう。心の真実を語ることを優先したのです。

聖書は、人生における真実や真理は何か、と証言をしています。それで、人生経験を積んでいけばいくほど、その人の人生経験に応じて、聖書が語っていることを悟っていきます。もちろん、すべてを悟ることは不可能です。千年も一人の人間が生きることは不可能ですから。長くて、百年くらいですか。それで、その千年の人生経験をするためもあり、人は集まります。人それぞれ人生経験が違い、また、共通もしている部分があるからです。クリスチャンは日曜日に教会に行きます。

その集会で、必ず読まれるのが聖書です。仕事が終わってからの自由な時間ですから学校の教科書を勉強するような形では面白くない。それで、聖書は昔物語や夢物語のように語られます。つまり、聖書は外面的な事実を内面的に処理をしてから語ります。

特に奇跡物語には、そのように思われる個所があります。まぁ、仕事が休みの日です。

その集会で誰かが声を出して読みます。それを周りの者が耳で聞きます。そのような形式に適しているのが聖書です。一人で聖書を読んでも恵みはありますが、多くの者が集まり、朗読された聖書の箇所を多くの者で話し合うと人それぞれの人生経験が語られることになり、その人なりの悟りが得やすくなります。

 おとぎ話という名の畑の地中に隠された宝さがしを一人でするよりは、みんなで掘った方が宝を発見する時間が短縮されます。

 そのような奇跡物語の一部がマタイによる福音書(9章18~26節)にもあります。

「イエスがこのように語られていると、見よ、ある司(教会堂長ヤイロ)が来て、イエスに平伏しました。そして言います。「私の娘が今しがた死にました。でも、来て、娘に手を当ててください。すると、娘は生きます。」

するとイエスは立ち上がって、彼について行かれた。また、弟子たちも。

すると見よ、出血で12年ものあいだ苦しんでいた女がイエスの後ろから近づいて、イエスの衣のすみにある房(ふさ)にさわった。それは、彼女が自分に言い聞かせていたからだ。イエス様の衣にさわるだけで救われる、と。

それで、イエスは振り向かれて彼女を見て言われた。「安心しなさい、娘さん、あなたの信仰があなたを救ったのです。」そのときから、彼女は救われた。(治った。)

それから、イエスは、その司の家に行かれるが、(葬式の慣習として)笛を吹くたちや(葬式の仕事として)泣き叫ぶ者たちを見られて言われた。

「帰りなさい。この子は死んではいないのだ。眠っているだけだ。」

すると、彼らはイエスを馬鹿にして笑った。しかし、彼らが追い出されてから、イエスは入って行かれて、彼女の手を取られた。すると、少女は起き上った。これは、その地方一帯のニュースとなった。」

 

 

 

 

 

断食

ヨハネ・ヤジロー

 洋の東西を問わず、断食は宗教的な慣習や苦行として古代からある。

様々な目的があるらしい。目的に応じて、完全な断食や部分的な断食もある。しかし、飲食を完全に絶つことは危険。だけど、悲しみに暮れているときは完全な断食に自然になりやすい。宗教的な慣習とは別に健康のための断食もあるが、主な目的は、悪いことをしたら天から罰が与えられるので、その罰がこわくて、断食苦行をして、つまり、反省をしていることを具体的に天(神様)に示して、天罰が下らないようにすること。

とにかく、断食をするのは自分のためだ。

つまり、人間は結果を見れば、悪いことをした事実が存在するので、いつも断食をすることになる。それで、断食が宗教的な苦行としての慣習となったのかも知れない。

それで、イエス様の時代には、週に2度断食をする習慣を持った坊さんがいたらしいが、その断食を自慢するような宗教的な勘違い、つまり、偽善的な罪があったらしい。その断食でできた余裕を活かして困窮している人に食べ物を施すこと自体は良いことなのだけど感謝されて勘違いしたのかな。まぁ、良い人だと思われたいと間違える。

こわいのは、このような人前での偽善がもたらす毒は、人の心に入っていきやすいので、暴力団などより深刻な結果をもたらしやすい。悪人の方が善人より救われやすい、となる。

 マタイによる福音書9章14~17節あたりを読んでみたい。

「(イエス様が正しい人を招くために来たのではない、悪い人のためだと言われた。)そのときにイエスのもとにヨハネの弟子たちは来て言った。

「私ども(エッセネ派修道院派?)や法師派(ファリサイ派)は、断食をするのに、どうして、あなたの弟子たちは断食をしないのですか。」

するとイエスは彼らに言われた。

「花婿(イエス・キリスト)に付き添う者たちが花婿といる間は悲しめようか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日(十字架の日)が来る。するとそのとき、断食をする。

また、誰も真(ま)新しい布切れ(イエス様の率いるナザレ派、後のキリスト教徒)で、古い服の裂け目にパッチをしない。パッチが縮んで服を引き裂き、前よりもひどくなるからだ。また、新しいワイン(ナザレ派)を古い皮袋に入れない。そうしないと、古い皮袋は引き裂かれる。(新しいワインは発酵していくので、古くて弾力性の失われた皮にストレスを与えるので、古い皮袋は引き裂かれる。)ワインは流れ出て古い皮袋は使えなくなる。(死ぬ。)それで、新しいワインは新しい皮袋に入れる。すると両方とも共存(保存)できる。」